盲 ひたる母の眼裏に沁みてゐし明治の雪また二・二六の雪齋藤史『渉りかゆかむ』
二・二六事件の日、東京には雪が降っていた。すでに光を失った「母の眼裏」に「明治の雪また」その「二・二六の雪」が「沁みてゐ」た、という。
「昭和の雪また二・二六の雪」といえば両者は包含関係にあるが(二・二六は1936(昭和11)年2月26日)、「明治」であるから、45年の明治と、たった一日の「二・二六」が並置されていることになる。
この長短2つの劇的な時間的枠組の中で起きたすべてのことが「雪」の視覚的イメージに集約されているのである。そしてその雪は「盲ひたる母の眼裏」に収斂する。読者の視点から云えば、母の眼裏を起点として、この二重の圧縮を解凍することになるわけだ(母の眼裏→明治の雪また二・二六の雪→雪の象徴するもの)。
しかし、ここではまだ回収されていない事柄がある。二重の圧縮を伴う詩的負荷を「母の眼裏」に求める「作者=子」の姿だ。果たして母の眼はこの負荷に耐え得るのであろうか、と思いを巡らせたとき、この母子の――表現者と被表現者の――或種の暴力を伴った関係性が見えて来るのである。この関係性が立ち上がるとき、「雪」に込められる、「明治」と「二・二六」に起きた諸々の事象の根底にも、人々の関係性があったことに思い到るのだ。
時代に雪は降り、人の関係性は、その下で様々なドラマを創り出して来た。それは時として、暴力を伴うものであった。