2013年6月17日月曜日

no.6

めしひたる母の眼裏に沁みてゐし明治の雪また二・二六の雪

齋藤史『渉りかゆかむ』

二・二六事件の日、東京には雪が降っていた。すでに光を失った「母の眼裏」に「明治の雪また」その「二・二六の雪」が「沁みてゐ」た、という。

「昭和の雪また二・二六の雪」といえば両者は包含関係にあるが(二・二六は1936(昭和11)年2月26日)、「明治」であるから、45年の明治と、たった一日の「二・二六」が並置されていることになる。

この長短2つの劇的な時間的枠組の中で起きたすべてのことが「雪」の視覚的イメージに集約されているのである。そしてその雪は「盲ひたる母の眼裏」に収斂する。読者の視点から云えば、母の眼裏を起点として、この二重の圧縮を解凍することになるわけだ(母の眼裏→明治の雪また二・二六の雪→雪の象徴するもの)。

しかし、ここではまだ回収されていない事柄がある。二重の圧縮を伴う詩的負荷を「母の眼裏」に求める「作者=子」の姿だ。果たして母の眼はこの負荷に耐え得るのであろうか、と思いを巡らせたとき、この母子の――表現者と被表現者の――或種の暴力を伴った関係性が見えて来るのである。この関係性が立ち上がるとき、「雪」に込められる、「明治」と「二・二六」に起きた諸々の事象の根底にも、人々の関係性があったことに思い到るのだ。

時代に雪は降り、人の関係性は、その下で様々なドラマを創り出して来た。それは時として、暴力を伴うものであった。

2013年6月12日水曜日

no.5

黙すことながきゆふさり息とめて李の淡き谷に歯を立つ

小原奈実「にへ」(『率 通巻2号』)

ある言葉を発することのできない「ゆふさり」に、「息」までも「とめて李の淡き谷に歯を立」てる。

「李」の描写として、「淡き谷」という局所的なフォルムが抜き出される。適切な抽象は、時として精巧な模写にさえ表れないものを表す。ここで李の生命感はその淡き谷に局地的に凝縮しているのである。作者はそこに「歯を立」てた。ここで、李の生命が淡き谷に凝縮しているのとまったく同じように、作者の生命もまたその「歯」に局地的に凝縮しているのである。そして歯が立てられることによって2つの生命は極めて微細な接点で交わることになる。夕暮れ時の異質な生命の微細な交錯を前にして、言葉も、呼吸でさえも不要なもののように思えてくるのだ。

no.4

憎むにせよ秋では駄目だ 遠景の見てごらん木々があんなに燃えて

大森静佳『てのひらを燃やす』

最近発売された大森静佳の第一歌集『てのひらを燃やす』(角川書店)からの一首。

憎むにせよ秋では駄目だ――語りかけるように、鮮烈なフレーズが冒頭に展開される。一字空けの後も語りかけるような口調は継続し――見てごらん――「遠景」へと視点が促される。そこには「木々があんなに燃えて」いる。

「秋」であるから、「木々があんなに燃えて」のベースには紅葉の景がある。ところが、ここでは単純な紅葉の景の比喩を大きく離れて、ほとんど本当に木々が燃えているように感じられるのだ。「ほとんど本当に」という言い回しは、紅葉の景がベースにあることによって、山火事のように眼の前で実際に木々が燃えているようなイメージまでは想起されず、しかしただの紅葉の比喩というわけでもない、本当に、確かに燃えている木々のイメージが感じられるというニュアンスを表す。純粋に燃える木々の煌々たるありさまに、目の眩むような美しさを覚える。

そして、単純な比喩を越えたこのようなイメージを引き連れてきたのは、冒頭の「憎む」である。憎しみの現実的な発露は確かに否定された――秋では駄目だ――わけであるが、心裏に留まる憎しみは眼前の景を昇華させた。

この「遠景」は、対人関係に於る憎しみの発露の現実的な様相から離れた、本来の憎しみの姿なのではないだろうか。もしそうだとすれば、憎しみがこんなにも美しいことを、私は知らなかった。

2013年6月11日火曜日

no.3

どつぷりと紅茶にレモン片 人に言へざる夢を見てしまひたり

安田百合絵「Trompe-l'œilトロンプルイユ」(『本郷短歌 創刊号』)

「どつぷりと紅茶にレモン片」という情景に「人に言へざる夢を見てしまひたり」という状況が対応したシンプルな構造の短歌である。人に言えない夢を見てしまったというのは、多くの人にとって経験がある共感性の高い事柄であろう。その事柄の手前にティーカップに挿み込まれたレモン片が提示されるわけだが、「どつぷりと」というのは、紅茶のレモン片の形容としてはやや量感が過剰なように思われる。この過剰さへの違和感が、「人に言へざる夢を見てしまひたり」の動揺と対応しているところに、この歌の抒情が立ち上がるのであろう。

と、散文的な解釈を示しただけではこの歌の魅力の半分ほども語れていないように感じるのは、恐らく気のせいではあるまい。この歌に触れて得られる感動の本質に、上述の散文的な解釈は辿り着くことが出来ない。韻文によってのみ可能な表現――或はその逆――は確かに存在するのであるが、この歌の場合は幸いなことに、その言語化がある程度可能なように思われるので、以下試みる。

この歌の韻文的な魅力の核には「紅茶にレモン片 人に」がある。第3句に「片」がはみ出し、一字空けて「人に」につながるスタイルが一見してユニークだ。この「片」のはみ出しの一次的な機能としては、「どつぷりと」のあり余る量感への貢献があるが、「片」はまた、この歌の「切れ」を構成しているという点においても重要である。上述したように「情景+状況」という構造上の切れは「片」と「人に」の間にある。そしてこの歌の「片 人に」が興味深いのは、通常の意味上の切れよりも強固な切れをこの場所にもたらしていることだ。

まず、一字空けには「切れ」を視覚的に明示する働きがあり、「片」と「人」が共に名詞であることもこの切れを強化する。また、「レモン+片」で「切り取られたレモン、レモンの切れ端」を表すように、「片」という語はその本質として切れている。このように、何重もの意味でこの部分は切れているわけであるが、それにも関わらず、「レモン片」が「人に言へざる夢」から離れて、どこか遠くへ行ってしまうというようなことはない。

それは、先述したように、この歌の解釈として、情景と状況が密接に対応していることによる部分が大きいが、それに加えて、「切れ」が第3句に存在していることにも注目したい。一般に歌人は第3句を無意識に歌の要として認識しているらしく、このような切れを第3句にもってくることはもちろんのこと、字余りさえも極度に嫌い、5音ぴったりでまとめてくるケースが極めて多いことが、以前個人的に試みた統計調査によって明らかとなっている(この調査の結果については後日発表したい)。このように緊密なまとまりを持つ第3句に強固な切れを置くことによって、「片 人に」は強固に切れていると同時に強固に結びついている。この激しい反発と激しい牽引とのせめぎ合いが、散文的解釈では説明しきれないこの歌の鮮烈なポエジーを生むのである。この点については、「いき」の構造を「媚態」の二元性に求めた九鬼周造の議論と関連付けても面白いかも知れない。

情景表現と心情表現を並置させる手法は現代短歌ではありふれたものであるが、この歌は、その切れ目に通常の意味的な対応を越えたつながりと反発を有している点で、類似する構造を持つその他幾千の現代短歌とは異なる。まだまだ短歌の表現手法には開拓の余地があることを予期させる点でも、この歌への興味は尽きない。

no.2

枯れたからもう捨てたけど魔王つて名前をつけてゐた花だつた

藪内亮輔「魔王」(『京大短歌 通巻19号』)

枯れたからもう捨てたけど――シンプルな理由によって「花」は捨てられた。その花には「魔王」という名前がつけられていた。

魔王のような外観をもつ花の名を挙げることは恐らくこの歌の解釈にとって意味を持たないだろう。「魔王のやうな花だつた」のではなく、「魔王つて名前をつけてゐた花だつた」のである。

名付け――他者への一方的なアイデンティティの付与――とは、対象への倒錯した自己意識の投影である。実際に存在した花は既に捨てられ、今はただ回想の中に魔王という名の花が偏在するのみだ。この偏在性を、人は愛と呼ぶのかも知れない。

no.1

最近は歌集(或は雑誌)単位での批評を書いている余裕がなく、このブログがもっぱら拙作の発表の場となってしまっていることは残念に思う。そんな訳で、比較的労力のかからない一首評の連載を今日から開始したいと思う。

目を閉じて音だけを聞く映画にも光はあってそれを見ている

山崎聡子『手のひらの花火』

最近発売された山崎聡子の第一歌集『手のひらの花火』(短歌研究社)からの一首。

写真を光(視覚)の芸術、音楽を音(聴覚)の芸術とするならば、映画はその複合的な表現と云えるだろう。

ここで作者は敢えて目を閉じる。映画の「音だけを聞く」。光は見えない。ところが、「光はあってそれを見ている」。光はある。光とは何か。

目をつぶっていても、作者の前にスクリーンは光り輝いていて、「音」に対応してシーンは揺れ動く。作者は心の目でそのスクリーンを見る。その時、心の中の映像と実際にスクリーンに投影されている映像は一致しない。

誰かに作られた文脈から開放された「光」は、音の実在性のみを頼りとして、新たな映画を構成し始める。私たちは、それを記憶と呼んでいるのかも知れない。

2013年6月4日火曜日

ひとのこころをたねとして

『京大短歌19』に掲載した評論「ひとのこころをたねとして――古今和歌集の方法:重なり合う文脈の饗宴――」を公開します(この文章上のリンクをクリックして下さい)。最新の研究によって明らかになってきた『古今和歌集』のオリジナルな魅力と技法を、本格的に、かつ誰にでも分かるように、従来の用語を用いずに解説しました。最終章には、今、古今和歌集を語る意義についての私見を付しました。5月18日(土)の中日新聞(東京新聞)の夕刊で加藤治郎氏に「十九号の白眉」との評価を頂いています。小松英雄氏の『新装版 みそひともじの抒情詩 古今和歌集の和歌表現を解きほぐす』(2012、笠間書院)に拠った部分が大きいです。学生短歌会誌に載せている都合上、歌人を想定読者とした文体になってますが、歌人ではない方にも読んで頂ける内容となっています。御感想を頂けると嬉しいです。

2013年5月

5月に詠んだ短歌をまとめておく。既にこのブログに公開した歌が3首、そうでないものが3首で、計6首。御感想を頂けると嬉しい。

夏雲

たをやかな風にゆらいだ薔薇の色はすでにかわいてゐるはつなつの

夏痩せた身体は風にはこばれて鳥居をくぐれば新しい街

はるかなる道はるかなる夏雲にちひさく息を吹きかけてみる

バスケットゴールの網は朽ち果ててひとところ光のあたる場所

塀の高さに薔薇たち上がり一寸ちよつとだけ背伸びをしても手は届かない

窓際に金魚を飼ひて暮らしゐるあなたへ送る絵はがきのねこ

2013年5月17日金曜日

鳥居をくぐれば

滋賀県立近代美術館へ、志村ふくみの紬織を中心とした日本美術の企画展「装いとしつらえの四季――志村ふくみの染織と日本画・工芸名品選――」を見に行って来た。

もともとこの企画展が目当てで、常設展はおまけ程度の気持ちで企画展を見る前にさっと見てしまおうと思ったのだが、常設展の一室は小倉遊亀のコレクションとなっていて驚いた。彼女は大津出身らしい。知らなかった。特に後期の作品が充実している展示であった。小倉遊亀については、画集等で見た『首夏』のような初期の作品に見られる独特な透明感のある描写が印象的であったが、生で見るとそれよりも、後期にかけてどんどん無骨になってゆくフォルムからほとばしる生命感の躍動により強い魅力を感じた。

常設展で小倉遊亀の不意打ちにあって、すでに十分に堪能してしまったのだが、企画展もまた、素晴らしい内容だった。春夏秋冬の季節ごとに作品が振り分けられて、春から順に楽しむことができるような展示形式になっている。展示内容は、志村ふくみの紬織と清水卯一の陶芸を中心として、その間に日本画や、杉田静山の竹細工まで展示され、日本美術を複合的に堪能できるような構成となっている。

なによりも圧巻だったのは、やはり志村ふくみによる染織作品であった。彼女の作品は桜・梅・藍のような植物から得られた染料によって染め上げられているらしいのだが、その繊細かつ艶やかな発色はまさに人の為せるものではなく、あまりの美しさに良く目を凝らしてその色彩を理解しようとするのであるが、その色の機微に視覚の解析能力が追いつかない。今日帰りに買った彼女の著書『色を奏でる』(筑摩書房)には、

ある人が、こういう色を染めたいと思って、この草木とこの草木をかけ合せてみたが、その色にならなかった、本にかいてあるとおりにしたのに、という。

私は順序が逆だと思う。草木がすでに抱いている色を私たちはいただくのであるから。どんな色が出るか、それは草木まかせである。ただ、私たちは草木のもっている色をできるだけ損なわずにこちら側に宿すのである。

ということが書いてあった。彼女のこの世のものとは思えないほど美しい染織は、高度な技術に基づくだけではなく、自然の色をただ「こちら側」に移すという謙虚な姿勢によるものだった。自然の美は人の為せるものではない。私たちにできるのはただその流れを受け止めて、ある表現形式へと流し込むことだけである。技量には雲泥の差があるが、同じく自然の表現を志す者として、彼女の言葉には大いに共感するものがあった。

夏痩せた身体は風にはこばれて鳥居をくぐれば新しい街
はるかなる道はるかなる夏雲にちひさく息を吹きかけてみる
バスケットゴールの網は朽ち果ててひとところ光のあたる場所

2013年5月5日日曜日

2012年12月 2013年3月、4月

去年の12月、今年の3月と4月に詠んだ短歌をまとめておく。既にこのブログに公開した歌が12首、そうでないものが1首で、計13首。御感想を頂けると嬉しい。

椿

冬の陽はひくく差し込むすすき穂のゆれ 風のこゑ 飛ぶ白き種子

深くなればなるほどふかまる水の色に「川の匂ひがする場所ですね」

ほつとりと椿ちりかかる道肌に杖つき歩むひとびとのこゑ

菜の花に蔓からませて何らかのマメ科植物がのびてゐる

落ちてゐる椿ついてゐるつばき鮮やかな色といふほどもなく

散りかかる椿やまぶき咲き初むる於美阿志神社の境内の春

明転するひかりの海にくるまれてなのはなの色は視認できない

風のはやさでちひさく浮上するさくら(あれは)蝶の翅です

気づいたらそこにはゐない鳥のゐた場所に挿入する青い色

乾いた色をしてゐるつばき冷えきつた花弁にゆびをすべらせてゆく

くすのきの葉の生えかはるときとして今年も春を送らむとする

白いはなびらの落ちてゐるさみどりの森の何処かに咲くしろい花

花の名をひとつ知りても、てのひらのあなたのことはなにも知らない

2013年4月28日日曜日

花の名をひとつ知りても

白いはなびらがはらはらと降りてくる。あたりを見まわしても、ただ青々と新緑の樹々が生い繁るばかりで、白い花は咲いていない。

白いはなびらの落ちてゐるさみどりの森の何処かに咲くしろい花
花の名をひとつ知りても、てのひらのあなたのことはなにも知らない

2013年4月14日日曜日

生えかはるとき

百舌鳥へゆく。百舌鳥には、有名な大仙陵古墳(仁徳天皇領)を始めとした多くの古墳が集結している。大仙陵古墳やニサンザイ古墳のような巨大な墳丘を誇る墳墓には圧倒されたが、私としては、直接墳丘に登れるような、より小規模な古墳に魅力を感じた。なかでも中百舌鳥駅近くの御廟表塚古墳は、脇に樹齢800~1000年とされるクスノキが植えられ、その奥に筒井順慶の子孫の屋敷とされる「筒井邸」が垣間見える等、見どころの多いオススメの古墳だ。それにしても、墳丘あるところ、森あり、とでもいうべきだろうか、日本の古墳の上には必ず木々が生えている。これは本来の姿とは関係のないものなのであろうが、原形を留めずにただの「土」としてあるかのような墳墓のありさまには、ある好ましい「様式」の存在を確かに感じるのである。

くすのきの葉の生えかはるときとして今年も春を送らむとする

2013年4月10日水曜日

冷えきつた花弁に

欠落のない完全な椿というものを見たことがない。

乾いた色をしてゐるつばき冷えきつた花弁にゆびをすべらせてゆく

2013年4月5日金曜日

未来 2013年4月号秀歌選

短歌結社誌『未来』の4月号を読んだ。今月も秀歌選をつくってしまおうと思う。『未来』2013年4月号に掲載されているすべての短歌より7首選んだ。掲載順に記す。

1 残夢とや草むら中に鳴き出づる虫の音と聞く目覚まし今朝は  米田律子

2 夜の駅三つほど過ぎ焦燥をいまだおし殺しきれずにいるのだ  阿部愛

3 日の丸に向かって射精できそうなくらい愛しているという比喩  阿部愛

4 シャンプーと思って取ったらコンディショナーだったので今日はもう買いません  阿部愛

5 まだ僕は平成二十二年製十円玉の光を見てない  中島裕介

6 靴跡に靴をかさねてやわらかい雪を漕ぐ非武装地帯の  柳澤美晴

7 海に雨(涙はすこし薄くなる)ウミガメプールに降るつよい雨  やすたけまり

――このタイプの緊迫感を表現できる現代歌人を米田律子の外に知らない。結句「目覚まし今朝は」の独自性。

――焦燥。「夜の駅三つほど過ぎ」の場面設定が秀逸。

――「比喩」であるという奇妙な落ち着き。

――あるある的内容なのかと思ったらそうではないという。

――それだけの事実。

――北海道の方言で雪の中を歩くことを「雪を漕ぐ」と言うらしい。ここでは方言として面白いのではなく、「非武装地帯」に繋ぐ表現として重要。非武装地帯の衝撃。それはもう非武装地帯なのであろうが、ここでの意図は。

――雨は海に降り、そしてウミガメプールに降っている。涙はウミガメのものなのか、他の誰かのものなのか。ほとんど水属性の語で一首を構成する構想が興味深い。

(あれは)

亀岡へゆく。暖かければ外に出られる。外に出られれば短歌が出来る。

風のはやさでちひさく浮上するさくら(あれは)蝶の翅です
気づいたらそこにはゐない鳥のゐた場所に挿入する青い色

2013年4月4日木曜日

何らかのマメ科植物

明日香へゆく。曇っていたのは残念だが、春は仕上がりつつある。

菜の花に蔓からませて何らかのマメ科植物がのびてゐる
落ちてゐる椿ついてゐるつばき鮮やかな色といふほどもなく
散りかかる椿やまぶき咲き初むる於美阿志神社の境内の春
明転するひかりの海にくるまれてなのはなの色は視認できない

2013年4月2日火曜日

早稲田短歌42号

『早稲田短歌42号』(早稲田短歌会)を読んだ。

今回の早稲田短歌についてちょっと気になったのは、何やら斬新で挑戦的な意味内容を誇る一方で、短歌の韻律については妙に保守的な印象を受ける作品が多かったことだ。この奇妙なアンバランス感、言葉の意味としての作者の情念が突出して、文体が置き去りにされているような感覚が、私の中に大変な違和を生み出してしまっている。

そんな中、中盤に3つ連続している山中千瀬の連作(「ロード・ムービー」、「グランド・フィナーレ」、「クレジット」)に見られる作品群が、際立った存在感を放っているように思えた。特に面白いと思った3首を引用したい。

サーカスは黙って行ってしまった。置いていかれた町で暮らした

空想のなかに何度も水没の故郷を きれい。きれい。と言った

あまつぶが町をあざやかにしていく(見てなよ)生まれたいのだね町

一見して、虚構世界の鮮やかな描写が印象的であるが、それと同時に、言葉が動いていることに注目したい。動いている、というのは、例えば二首目の「水没の故郷を きれい。きれい。と言った」の部分であるが、ここでは、「故郷を」と「きれい」の間に一字空けを挿入して、2つの「きれい」を句点で区切っていくことによって韻律が断続的に加速し、更に2つの「きれい。」が第四句と第五句にまたがることによってそのテンションが減衰しない。と、これはやや個人的な解釈かも知れないが、いずれにせよ、三首目の「(見てなよ)」が印象的であるように、繊細に配慮された表記と、巧みな句跨り的構造がもたらす、「普通の短歌的韻律」からちょっと冒険したような、独創的過ぎない独創的な韻律が、どこか日常の影が感じられる虚構世界の描写と重なって、作品の世界へと読者が踏み込むことを容易にしていると云えるだろう。

最近、小説界隈からの短歌批判をいくつか読んで、短歌の面白さとはなんだろうかと考えていたのだが、それは何も特別なことではなくて、短歌の定義にその答えはあるのではないかと思う。つまり、「短歌は短くて、独自の韻律を持つ」ここに尽きるのではないであろうか。意味や内容の充実を主に楽しみたいのなら、短歌よりも優れている表現形式はいくらでもある。それでも、短歌を読みたい。面白い短歌を読みたい。そういう意思で私は短歌を読み、短歌について書いているわけであるが、そんなときに、山中の作品のような、短歌の短歌的な部分に十分な工夫が感じられる作品を読むと、やっぱり短歌って楽しいよね。面白いよね。っていうことを再確認できて、またその先を見据えることができる。私は短歌の将来を悲観していない。

2013年3月21日木曜日

川の匂ひがする場所ですね

保津峡へ行く。

深くなればなるほどふかまる水の色に「川の匂ひがする場所ですね」
ほつとりと椿ちりかかる道肌に杖つき歩むひとびとのこゑ

2013年2月13日水曜日

2012年11月

去年の11月に詠んだ短歌をまとめておく。14首。御感想を頂けると嬉しい。

しじみ蝶

収穫を終へし田の面に組まれゐる 藁の構成 我の構成

透明な秋のひかりにくれなゐのほほづきひとつふたつみつよつ

人びとのあゆむ速さに滲みゆく銀杏並木のあをいろきいろ

焦げ茶色の陸橋に汽車はあらはれずあとすこしだけ此処にゐる 時間

とびとびにとぶ雲を見るあきかぜのはてにはなにもない空もあり

夏には花でうめつくされたこの場所にいまふたひらひらく秋の薔薇みゆ

百合の木の量感あはく色づいた茶色い葉から順に落ちてゆく

くすりゆびで引つ掻いたやうなきづあとを(そこにはゐない)雲がのこした

すこしだけさみしくなつた銀杏の葉の空白にまた冬が来りぬ

ポケツトから柿の実ひとつ取りだして一寸ちよつとなげてみる軌道のやうな

赤さびた柱に組まれし廃屋に 吹きぬくる風 生えのぶる蔦

冬薔薇の棘の硬さに食ひ込んだ人差し指に血は出て来ない

木の椅子は秋のひかりに温かく降りやまぬ葉の重さをおもふ

しじみ蝶のからまりあつて昇りゆく 太陽にかさなつてみえない

2013年2月7日木曜日

未来 2013年2月号秀歌選

短歌結社誌『未来』の2月号を読んだ。今月も秀歌選をつくってしまおうと思う。『未来』2013年2月号に掲載されているすべての短歌より9首選んだ。掲載順に記す。

1 いずれあなたの戸閾とじきみを踏むあしうらを今日は真水に浸しておりぬ  村上きわみ(以下同じ)

2 風下に咲く大叔母の簪をかろうじてこの世からながめる

3 くちなわを濡らすひかりのあまやかな記憶の底に凝る、何度も

4 濃紺の守衛の胸に伏せられて書物は冬に似たものになる

5 白湯だけが親しい夜の入り口でいいよあなたの六腑になろう

6 (ゆるすとかゆるさないとか)恥ずかしい釜揚げうどんぞるぞるすする

7 啜ったり舐めたりするひと ひ って言ういのちだ なんとしてもかわいがる

8 泣くまいとしている人にひとつずつ滝を差し入れて暮らしたい

9 (いきものがひくく構えていることのかけがえのなさ)咬みにきなさい

村上きわみの「戸閾を踏む」(「2012年度未来年間賞」として、一年の投稿歌の中から秋山律子が選んだ作品集)の読み応えが尋常ではない。

まずめまぐるし動く作中主体の視点がこの連作の醍醐味のひとつであろう。2では現世と来世の境界に存在している作中主体が、6では「釜揚げうどん」を「ぞるぞるすす」っていたりする。更には5では、「あなた」の身体に同化する意思――或は未来――が表明され、8、9ではやや超越的な視点が導入される。このように作中主体は通常の自我の枠組みを完全にはみだしてしまっているが、「はみだしている」のはそれだけではない。

驚くべき短歌表現の柔軟性を見てほしい。句跨りや、一字空け、句読点、パーレンなどの表記的な技術に支えられた、言葉の緩急によって形成される情感の脈動が、描写を越えて読者の心に叩きつけられる。特に印象深いのは、6の「ぞるぞる」や7の「ひ」のような音の扱いである。「ぞるぞる」のような擬音語は、短歌に限らずあらゆる言語世界で無自覚かつ大量に再生産され、その過程で語が本来有していたであろうテンションの一部を失っているように思える。「うどん」を「すする」シーンに対してメジャーな擬音語であると思われる「ずるずる」を使用したのでは十分な効果が得られなかったことであろう。また、7の「ひ」というひらがな一字で表された声を「いのち」と等価なものとして提示する手法も興味深い。このような音――それ自体は短歌の構想的にはほとんど無内容ともいえる表現――が、前後の言葉との有機的な関連に於て、選択され得るあらゆる理知的な描写を凌駕する可能性があることが彼女の作品に示されていることは、現代短歌の表現を考える上で示唆深いものがあるように思う。

未来 2013年1月号秀歌選

短歌結社誌『未来』の1月号を読んだ。今月も秀歌選をつくってしまおうと思う。『未来』2013年1月号に掲載されているすべての短歌より5首選んだ。掲載順に記す。

1 傷がつきにくい加工をほどこされ傷つきにくい眼鏡のレンズ  柳澤美晴

2 刻々と老いる体であそびたい(まだあそびたい)カステラを焼く  村上きわみ

3 こっくりとした色へ髪を塗りかえて今日こそ秋をはじめなければ  中込有美

4 純白の羽根の名残のように咲く睡蓮を指差してあなたは  中込有美

5 完璧なカラメルなのよ微笑んでひと息に割る銀のスプーン  中込有美

――最後まで読んでも「傷がつきにくい」というそれだけなのであるが。

――(まだあそびたい)。

――「こっくり」は「色・味などが、落ち着いて深みのあるさま」(大辞林 第三版)を表すらしい。いかにも秋らしい秋――「定型」としての秋――への焦燥。

――輝かしいまでの美しさを放つ前半の描写がむすびの「あなたは」の言いさしに収斂する。

――「カラメル」と「銀のスプーン」の光沢の呼応と破壊。