憎むにせよ秋では駄目だ 遠景の見てごらん木々があんなに燃えて
大森静佳『てのひらを燃やす』
最近発売された大森静佳の第一歌集『てのひらを燃やす』(角川書店)からの一首。
憎むにせよ秋では駄目だ――語りかけるように、鮮烈なフレーズが冒頭に展開される。一字空けの後も語りかけるような口調は継続し――見てごらん――「遠景」へと視点が促される。そこには「木々があんなに燃えて」いる。
「秋」であるから、「木々があんなに燃えて」のベースには紅葉の景がある。ところが、ここでは単純な紅葉の景の比喩を大きく離れて、ほとんど本当に木々が燃えているように感じられるのだ。「ほとんど本当に」という言い回しは、紅葉の景がベースにあることによって、山火事のように眼の前で実際に木々が燃えているようなイメージまでは想起されず、しかしただの紅葉の比喩というわけでもない、本当に、確かに燃えている木々のイメージが感じられるというニュアンスを表す。純粋に燃える木々の煌々たるありさまに、目の眩むような美しさを覚える。
そして、単純な比喩を越えたこのようなイメージを引き連れてきたのは、冒頭の「憎む」である。憎しみの現実的な発露は確かに否定された――秋では駄目だ――わけであるが、心裏に留まる憎しみは眼前の景を昇華させた。
この「遠景」は、対人関係に於る憎しみの発露の現実的な様相から離れた、本来の憎しみの姿なのではないだろうか。もしそうだとすれば、憎しみがこんなにも美しいことを、私は知らなかった。
憎しみの感情があるから紅葉が紅葉以上のものの炎上があるのですね。この気持よくわかります。この炎上は美しいよりも彼女の失恋の悲哀を受けとめます。ところで、塔、の松村氏の、やさしい鮫日記、に彼女の歌にふれています。きみのなんらかの言葉がいただけたらば嬉しい。
返信削除「生前という涼しき時間の奥」というオリジナルでは、言葉の間の位相の微妙なずれが繊細な詩情を生んでいるのに対して、小川さんの「きよらかな刻のながれの積(かさ)」は割と素直についてますよね。
返信削除後半も「あなたの髪を乾かすあそび」っていうわからなそうでわかるような(わかりそうでわからないような)意外性のある表現がオリジナルにあるのに対して、「あなたの髪を戯(あざ)るすさびよ」の「戯(あざ)るすさびよ」は、意味も抒情の方向性も比較的明確ですよね。
小川さん自身が書いていらっしゃるように、「涼しき」を「涼しき」ととるか「清らかな」ととるかに端的に表れている作歌スタイルの違いなのでしょう。
ありがとうございます。はじめて歌人から言葉をいただきました。
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