2012年5月31日木曜日

2012年5月

5月に詠んだ短歌をまとめておく。既にこのブログに公開した歌が12首、そうでないものが8首で、計20首。御感想を頂けると嬉しい。

保津川

歳月をかさねし夢の白鯨のあめたかく吹く潮の稜線

どこへでもゆけるやうな青空にとろける異郷のガラスの駅舎

こんなところにも紋黄蝶ゐて嵯峨野ゆくわたしと山吹と竹の原

初夏の風にゆられて小麦畑織りなす白きさざ波を見つ

鳥のこゑを聞きわけながらまだなにも植えられてゐない田を歩みをり

保津川のながれにそひて移りゆくみづいろの空ももいろの空

小麦のなかを去りゆく電車 わたくしも先へと進まねばならぬゆゑ

初夏の熱にうなされ薔薇の花フェンスの奥にあらはれては消え

ひとつづつともるまちの灯やまの端はとほくなりゆくほど薄くあり

ところどころに白き松かさ落ちてゐる橅また橅の道を歩めり
(晩夏なりぶなまた橅の旅にあり  堀口星眠『青葉木菟』)

これよりは下り坂なりふみしむる枯枝の音楽しみてゆく

初夏のひかりあふるる山林に 風なり 木々の影うごく見ゆ

山道をくだりくだりてサイレンの鳴り響く村の片隅に出づ

山道をくだりくだりて南天の実れる人家の片隅に出づ

鶯の谷わたる声あとにして降り来る山に別れを告ぐる

初夏のひかりのなかを黒揚羽つつじもとめて我のさきゆく

たかいところ・ひくいところをゆきあへる黒揚羽また逢ふことはなし

枯れてゆくものばかりありひとところ残るつつじに黒揚羽舞ふ

町のなかをゆきあふ流れにしたがひて水面ばかりの場所へ着きたり

なつかしい水田をゆく自転車の車輪はすこし歪んだままで

2012年5月26日土曜日

裏島 離れ島

石川美南の「双子の」第二歌集『裏島』、『離れ島』(ともに2011、本阿弥書店)を読んだ。

この「双子の歌集」というのは明確なコンセプトをもっているようで、この2つの歌集は内容が大きく異なる。『裏島』には、家族五人それぞれの視点で歌を詠んだりとか、特殊な設定をもつ連作が多く、逆に『離れ島』は一首一首に強固な世界観をもった作品を中心に構成されている。これだけ方向性が異なると、読者によって好みがわかれることになる。

例えば東郷雄二は、彼の短歌コラム『橄欖追放』の「第84回 石川美南『裏島』『離れ島』」という記事において、

石川は基本的には一首ごとに異世界を立ち上げる。それは外部との回路を断たれた孤島である。異世界を訪れる人は、しばらくその世界を歩き回って基本的特性を会得しなくては、その世界を味わうことができない。しかるに石川の歌では一首で世界が終了してしまうので、なかなかその世界に没入することができないのだ。その結果、読者は灯しては消すマッチポンプのような作業を強いられることになる。

短歌は31音節の短い詩型なので、単独で異世界を立ち上げるには短すぎる。世界が成立するめには外部からの支えがなくてはならない。古典和歌の支えは共同性に基づく美の抽象空間であり、近代短歌の支えはリアリズムに基づく〈私〉である。

では異世界の持続時間を引き延ばし、短歌詩型の支えとして機能させるにはどうすればよいかというと、すぐに思いつくのが連作である。そして実際に石川は連作において、その実力を遺憾なく発揮しているように思える。

と、古典性や近代性の支えをもたない石川の短歌を単独で味わうことの困難性を指摘し、彼女の歌における「支え」は「連作」であると規定した上で、

このような理由で私は単発作品が中心の『離れ島』よりも、連作で構成された『裏島』の方を興味深く読んだ。そして、巻を閉じてあらためて、石川の真骨頂は物語性に富む連作にありとの感想を持ったのである。

と結んでいる。しかし、私は一首一首の個性がソリッドに際立っている『離れ島』の作品の方が好きで、むしろ『裏島』の作中主体を連作ごとに変更したりとか、そういうテクニカルな設定は、一首で十分に作品の世界観を表現できる彼女の力量を考えれば余計なものに感じられた。つまり、東郷氏にとっては『離れ島』だけでは物足りなく、私にとっては『裏島』だけでは物足りないわけだけれど、実際には2冊あるから大丈夫、というわけだ。

東郷氏のようなタイプの読者も私のようなタイプの読者も満足させる石川の懐の深さは、なにも歌集を2冊にわけたところにのみ存在しているわけではない。次の2首を見てほしい。

終点と思へば始点 渡り鳥が組み上げてゆく夏の駅舎は

ビリヤードはたのしい遊び 国原を色とりどりの季語飛び散れり

どちらも色彩豊かな、日常から連続した緩やかなフィクションが心地よい作品だが、題材である「駅舎」と「ビリヤード」へのアプローチは大きく異なる。

二首目はビリヤードのテーブルを「国原」、球を「季語」に喩えている。「国原」も「季語」も極めて日本的な、日常からはかけ離れた語で、これらの語を「ビリヤード」の比喩に用いるのは特殊な修辞なのだけれど、結果的に「ビリヤード」の魅力を極限まで引き出すことに成功している。それに対して一首目は、「渡り鳥」、「夏」、「駅舎」というもともと親和性の強い3つの語を並列し、「組み上げてゆく」というさらに親和性を高める表現で繋ぐことによって、「駅舎」の魅力を最大限に引き出している。このように石川美南は題材の性質によって、正面から切り込んだり、トリッキーに意味を転換させたりと変幻自在なレトリックを駆使していて、この彼女の力量が結果的に驚くほど多彩な内容を歌に詠み込ませることを可能にしている。

手に取つてご覧ください内海の部分には触れないでください

風といふ風受け止めてゐるうちに助詞・助動詞を知り尽くす木々

千代田区は雲ひとつなく明後日のあなたの晩ごはんを知らない

引き出しの取つ手とれたる真昼間のどこにも隠れられぬゆゑ 鬼

「内海」、「助詞・助動詞」、「千代田区」、「鬼」――魅力的だけれどもそうそう詩にはなってくれない言葉が彼女の手によって軽やかに歌となっていく。

ここでは紹介しきれないけれど、このような題材の「幅」と合わせて、現実と虚構との距離感とか、作中主体のリアルな存在や意志が感じられたり感じられなかったりとか、多様な観点でこの歌集は「幅」を持っていて、読者はその幅のある世界の中で、お気に入りの「島」を心置きなく捜すことができるのではないだろうか。

ここに紹介したのはこの歌集の魅力のほんの一部にすぎない。最後に数首引用してこの評を終える。

白・黒・白・黒・みどり・黒 ひらめきは横断歩道渡る途中で

永遠に学生でゐる悪夢にて真夏、中庭の芝刈つてゐる

噛めば月のまばたきに似た音のするアルミニウムの硬貨を愛す

すこし歪んだままで

田植えは終わりかけていた。

町のなかをゆきあふ流れにしたがひて水面ばかりの場所へ着きたり
なつかしい水田をゆく自転車の車輪はすこし歪んだままで

2012年5月21日月曜日

くだりくだりて

保津峡より愛宕山に登る。

これよりは下り坂なりふみしむる枯枝の音楽しみてゆく
初夏のひかりあふるる山林に 風なり 木々の影うごく見ゆ
山道をくだりくだりてサイレンの鳴り響く村の片隅に出づ
山道をくだりくだりて南天の実れる人家の片隅に出づ
鶯の谷わたる声あとにして降り来る山に別れを告ぐる
初夏のひかりのなかを黒揚羽つつじもとめて我のさきゆく
たかいところ・ひくいところをゆきあへる黒揚羽また逢ふことはなし

2012年5月20日日曜日

あらはれては消え

薔薇が咲いている。

初夏の熱にうなされ薔薇の花フェンスの奥にあらはれては消え

2012年5月5日土曜日

聞きわけながら

亀岡へゆく。亀岡市は京都市の西隣の市で、京都中心部の整然と区画された街並とはうってかわり、美しい田園が広がっている。こんなにいいところに来たのは久しぶりだ。確かに京都の寺社は素晴らしい。これまでに訪れた銀閣寺、青蓮院、天龍寺はいずれも、非の打ちどころのない庭園を有していた。さまざまな植物を寸分の隙もなく配置する造園技術には、平安以来の京都の重厚な伝統を感じずにはいられない。いられないが、どのように優れた庭園も、自然の美において、一枚の水田に勝ることはできないのだと思う。

鳥のこゑを聞きわけながらまだなにも植ゑられてゐない田を歩みをり

嵯峨野ゆく

嵯峨へゆく。

こんなところにも紋黄蝶ゐて嵯峨野ゆくわたしと山吹と竹の原

2012年5月2日水曜日

本郷短歌 創刊号

『本郷短歌』(東京大学本郷短歌会)の創刊号を読んだ。

上の表紙の写真を見て頂ければわかると思うが、この雑誌、非常に渋いフォントとレイアウトで構成されている。p.26の「座談会 作歌の原点、現在地」というコラムの題字は巨大な「ヒラギノ角ゴシック体」で書かれていて、60年代の学生闘争が再来しそうな気配がある。短歌もまた重厚で読み応えのある作品が多く、エキセントリックな早稲田短歌会とは良い意味で対照的な存在だと思った。なかでも、

どつぷりと紅茶にレモン片 人に言へざる夢を見てしまひたり  安田百合絵

この一首は興味深い。「どつぷりと」という大胆な初句で口火を切り、「レモン片」の「片」を第三句にはみ出させることによってレモン片の重量感を存分にアピールして、そのあとに本題をつなげる個性的なスタイルの短歌だ。「どつぷり」の促音の「つ」を旧仮名で表記しているのも効いていると思う。

ところで、この本郷短歌の創刊号についてひとつ気になることがある。小原奈実の短歌がない、ということだ。小原奈実氏は本郷短歌会に所属する若い歌人で、私は彼女の存在を2011年4月5日の「朝日新聞(夕刊)」に掲載されていた「刃と葉脈」という連作で知った。そこには、

わが今日を忘れむ我かとりあへず鈍色のダウンコートなど着て

白梅の八重ゆるみゆくまひるまにゆるみあまりしひとひらの落つ

というような歌があったのだけれども、この2首には驚愕した。

まず、一首目についてだが、第二句までは静かでテンポのいい言葉でリズムをつくって、第三句で突然「とりあへず」などという投げやりな語をもってきて流れを転じ、ここで「鈍色のダウコート」という異常に渋いアイテムを持ち出してくる。そして最後の「など着て」――この4音が最も恐ろしい。この気韻のある締めによって読者は幽玄の世界へと旅立ち、閑寂な趣に心を遊ばせることになる。その別天地への起点が「ダウンコート」という日常的な存在であることも興味深い。

二首目は雅な歌だ。現代短歌を雅だなどというのはともすれば皮肉のように聞こえるかもしれないが、この歌についてはそんなことはない。現実の白梅に於てこのような情景を観測することは不可能のように思えるが、小原奈実の短歌の中にはリアリティーをもって存在している。なにか藤原定家の短歌に見られるような夢幻性を現代的にシャープにアレンジしたような、クラシカルな香りのする新しさを感じる。また、この歌に於ても締めの「落つ」が極めて上質であることにも注目したい。

記念すべき本郷短歌の創刊号で、短歌史に新たな足跡を残すであろう小原奈実の作品に立ち会えなかったことは残念と云うより他ない。