2013年6月17日月曜日

no.6

めしひたる母の眼裏に沁みてゐし明治の雪また二・二六の雪

齋藤史『渉りかゆかむ』

二・二六事件の日、東京には雪が降っていた。すでに光を失った「母の眼裏」に「明治の雪また」その「二・二六の雪」が「沁みてゐ」た、という。

「昭和の雪また二・二六の雪」といえば両者は包含関係にあるが(二・二六は1936(昭和11)年2月26日)、「明治」であるから、45年の明治と、たった一日の「二・二六」が並置されていることになる。

この長短2つの劇的な時間的枠組の中で起きたすべてのことが「雪」の視覚的イメージに集約されているのである。そしてその雪は「盲ひたる母の眼裏」に収斂する。読者の視点から云えば、母の眼裏を起点として、この二重の圧縮を解凍することになるわけだ(母の眼裏→明治の雪また二・二六の雪→雪の象徴するもの)。

しかし、ここではまだ回収されていない事柄がある。二重の圧縮を伴う詩的負荷を「母の眼裏」に求める「作者=子」の姿だ。果たして母の眼はこの負荷に耐え得るのであろうか、と思いを巡らせたとき、この母子の――表現者と被表現者の――或種の暴力を伴った関係性が見えて来るのである。この関係性が立ち上がるとき、「雪」に込められる、「明治」と「二・二六」に起きた諸々の事象の根底にも、人々の関係性があったことに思い到るのだ。

時代に雪は降り、人の関係性は、その下で様々なドラマを創り出して来た。それは時として、暴力を伴うものであった。

2013年6月12日水曜日

no.5

黙すことながきゆふさり息とめて李の淡き谷に歯を立つ

小原奈実「にへ」(『率 通巻2号』)

ある言葉を発することのできない「ゆふさり」に、「息」までも「とめて李の淡き谷に歯を立」てる。

「李」の描写として、「淡き谷」という局所的なフォルムが抜き出される。適切な抽象は、時として精巧な模写にさえ表れないものを表す。ここで李の生命感はその淡き谷に局地的に凝縮しているのである。作者はそこに「歯を立」てた。ここで、李の生命が淡き谷に凝縮しているのとまったく同じように、作者の生命もまたその「歯」に局地的に凝縮しているのである。そして歯が立てられることによって2つの生命は極めて微細な接点で交わることになる。夕暮れ時の異質な生命の微細な交錯を前にして、言葉も、呼吸でさえも不要なもののように思えてくるのだ。

no.4

憎むにせよ秋では駄目だ 遠景の見てごらん木々があんなに燃えて

大森静佳『てのひらを燃やす』

最近発売された大森静佳の第一歌集『てのひらを燃やす』(角川書店)からの一首。

憎むにせよ秋では駄目だ――語りかけるように、鮮烈なフレーズが冒頭に展開される。一字空けの後も語りかけるような口調は継続し――見てごらん――「遠景」へと視点が促される。そこには「木々があんなに燃えて」いる。

「秋」であるから、「木々があんなに燃えて」のベースには紅葉の景がある。ところが、ここでは単純な紅葉の景の比喩を大きく離れて、ほとんど本当に木々が燃えているように感じられるのだ。「ほとんど本当に」という言い回しは、紅葉の景がベースにあることによって、山火事のように眼の前で実際に木々が燃えているようなイメージまでは想起されず、しかしただの紅葉の比喩というわけでもない、本当に、確かに燃えている木々のイメージが感じられるというニュアンスを表す。純粋に燃える木々の煌々たるありさまに、目の眩むような美しさを覚える。

そして、単純な比喩を越えたこのようなイメージを引き連れてきたのは、冒頭の「憎む」である。憎しみの現実的な発露は確かに否定された――秋では駄目だ――わけであるが、心裏に留まる憎しみは眼前の景を昇華させた。

この「遠景」は、対人関係に於る憎しみの発露の現実的な様相から離れた、本来の憎しみの姿なのではないだろうか。もしそうだとすれば、憎しみがこんなにも美しいことを、私は知らなかった。

2013年6月11日火曜日

no.3

どつぷりと紅茶にレモン片 人に言へざる夢を見てしまひたり

安田百合絵「Trompe-l'œilトロンプルイユ」(『本郷短歌 創刊号』)

「どつぷりと紅茶にレモン片」という情景に「人に言へざる夢を見てしまひたり」という状況が対応したシンプルな構造の短歌である。人に言えない夢を見てしまったというのは、多くの人にとって経験がある共感性の高い事柄であろう。その事柄の手前にティーカップに挿み込まれたレモン片が提示されるわけだが、「どつぷりと」というのは、紅茶のレモン片の形容としてはやや量感が過剰なように思われる。この過剰さへの違和感が、「人に言へざる夢を見てしまひたり」の動揺と対応しているところに、この歌の抒情が立ち上がるのであろう。

と、散文的な解釈を示しただけではこの歌の魅力の半分ほども語れていないように感じるのは、恐らく気のせいではあるまい。この歌に触れて得られる感動の本質に、上述の散文的な解釈は辿り着くことが出来ない。韻文によってのみ可能な表現――或はその逆――は確かに存在するのであるが、この歌の場合は幸いなことに、その言語化がある程度可能なように思われるので、以下試みる。

この歌の韻文的な魅力の核には「紅茶にレモン片 人に」がある。第3句に「片」がはみ出し、一字空けて「人に」につながるスタイルが一見してユニークだ。この「片」のはみ出しの一次的な機能としては、「どつぷりと」のあり余る量感への貢献があるが、「片」はまた、この歌の「切れ」を構成しているという点においても重要である。上述したように「情景+状況」という構造上の切れは「片」と「人に」の間にある。そしてこの歌の「片 人に」が興味深いのは、通常の意味上の切れよりも強固な切れをこの場所にもたらしていることだ。

まず、一字空けには「切れ」を視覚的に明示する働きがあり、「片」と「人」が共に名詞であることもこの切れを強化する。また、「レモン+片」で「切り取られたレモン、レモンの切れ端」を表すように、「片」という語はその本質として切れている。このように、何重もの意味でこの部分は切れているわけであるが、それにも関わらず、「レモン片」が「人に言へざる夢」から離れて、どこか遠くへ行ってしまうというようなことはない。

それは、先述したように、この歌の解釈として、情景と状況が密接に対応していることによる部分が大きいが、それに加えて、「切れ」が第3句に存在していることにも注目したい。一般に歌人は第3句を無意識に歌の要として認識しているらしく、このような切れを第3句にもってくることはもちろんのこと、字余りさえも極度に嫌い、5音ぴったりでまとめてくるケースが極めて多いことが、以前個人的に試みた統計調査によって明らかとなっている(この調査の結果については後日発表したい)。このように緊密なまとまりを持つ第3句に強固な切れを置くことによって、「片 人に」は強固に切れていると同時に強固に結びついている。この激しい反発と激しい牽引とのせめぎ合いが、散文的解釈では説明しきれないこの歌の鮮烈なポエジーを生むのである。この点については、「いき」の構造を「媚態」の二元性に求めた九鬼周造の議論と関連付けても面白いかも知れない。

情景表現と心情表現を並置させる手法は現代短歌ではありふれたものであるが、この歌は、その切れ目に通常の意味的な対応を越えたつながりと反発を有している点で、類似する構造を持つその他幾千の現代短歌とは異なる。まだまだ短歌の表現手法には開拓の余地があることを予期させる点でも、この歌への興味は尽きない。

no.2

枯れたからもう捨てたけど魔王つて名前をつけてゐた花だつた

藪内亮輔「魔王」(『京大短歌 通巻19号』)

枯れたからもう捨てたけど――シンプルな理由によって「花」は捨てられた。その花には「魔王」という名前がつけられていた。

魔王のような外観をもつ花の名を挙げることは恐らくこの歌の解釈にとって意味を持たないだろう。「魔王のやうな花だつた」のではなく、「魔王つて名前をつけてゐた花だつた」のである。

名付け――他者への一方的なアイデンティティの付与――とは、対象への倒錯した自己意識の投影である。実際に存在した花は既に捨てられ、今はただ回想の中に魔王という名の花が偏在するのみだ。この偏在性を、人は愛と呼ぶのかも知れない。

no.1

最近は歌集(或は雑誌)単位での批評を書いている余裕がなく、このブログがもっぱら拙作の発表の場となってしまっていることは残念に思う。そんな訳で、比較的労力のかからない一首評の連載を今日から開始したいと思う。

目を閉じて音だけを聞く映画にも光はあってそれを見ている

山崎聡子『手のひらの花火』

最近発売された山崎聡子の第一歌集『手のひらの花火』(短歌研究社)からの一首。

写真を光(視覚)の芸術、音楽を音(聴覚)の芸術とするならば、映画はその複合的な表現と云えるだろう。

ここで作者は敢えて目を閉じる。映画の「音だけを聞く」。光は見えない。ところが、「光はあってそれを見ている」。光はある。光とは何か。

目をつぶっていても、作者の前にスクリーンは光り輝いていて、「音」に対応してシーンは揺れ動く。作者は心の目でそのスクリーンを見る。その時、心の中の映像と実際にスクリーンに投影されている映像は一致しない。

誰かに作られた文脈から開放された「光」は、音の実在性のみを頼りとして、新たな映画を構成し始める。私たちは、それを記憶と呼んでいるのかも知れない。

2013年6月4日火曜日

ひとのこころをたねとして

『京大短歌19』に掲載した評論「ひとのこころをたねとして――古今和歌集の方法:重なり合う文脈の饗宴――」を公開します(この文章上のリンクをクリックして下さい)。最新の研究によって明らかになってきた『古今和歌集』のオリジナルな魅力と技法を、本格的に、かつ誰にでも分かるように、従来の用語を用いずに解説しました。最終章には、今、古今和歌集を語る意義についての私見を付しました。5月18日(土)の中日新聞(東京新聞)の夕刊で加藤治郎氏に「十九号の白眉」との評価を頂いています。小松英雄氏の『新装版 みそひともじの抒情詩 古今和歌集の和歌表現を解きほぐす』(2012、笠間書院)に拠った部分が大きいです。学生短歌会誌に載せている都合上、歌人を想定読者とした文体になってますが、歌人ではない方にも読んで頂ける内容となっています。御感想を頂けると嬉しいです。

2013年5月

5月に詠んだ短歌をまとめておく。既にこのブログに公開した歌が3首、そうでないものが3首で、計6首。御感想を頂けると嬉しい。

夏雲

たをやかな風にゆらいだ薔薇の色はすでにかわいてゐるはつなつの

夏痩せた身体は風にはこばれて鳥居をくぐれば新しい街

はるかなる道はるかなる夏雲にちひさく息を吹きかけてみる

バスケットゴールの網は朽ち果ててひとところ光のあたる場所

塀の高さに薔薇たち上がり一寸ちよつとだけ背伸びをしても手は届かない

窓際に金魚を飼ひて暮らしゐるあなたへ送る絵はがきのねこ