ラベル 佐藤弓生 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 佐藤弓生 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2011年5月16日月曜日

薄い街

佐藤弓生の第三歌集『薄い街』(2010、沖積舎)の評を書く。

以前、彼女の第二歌集『眼鏡屋は夕ぐれのため』(角川書店)を読んだときには凄まじい衝撃を受けた。この歌集にあった歌をいくつか紹介したい。

人工衛星サテライト群れつどわせてほたるなすほのかな胸であった 地球は

死ねカワラヒワのように、と歌ったらなにかやさしく お茶にしましょう

ほのひかる貝のごとくを耳に当てもしもしそちらシルル紀ですか

いらんかね耳いらんかね 青空の奥のおるがんうるわしい日に

知らないひとについて行ってはいけませんたとえばあの夕陽など

これらの歌を見れば私の受けた衝撃を理解して頂けると思う。場所とか時間とかそういう概念がどうでもよくなってくるくらいどこにも留まらない視点、短歌という枠組みに縛られているはずなのに束縛を一切感じさせない表現技法、そういう点で、この歌集は現代短歌のもつ可能性をはっきりと示していた。

そして今回の「薄い街」、この歌集を単純にインパクトという点で見れば、前作には及ばないと思う。しかし、別の方向で佐藤弓生は進化を続けているように感じた。まず、表題歌を見てほしい。

手ぶくろをはずすとはがき冷えていてどこかにあるはずの薄い街

この「薄い街」は稲垣足穂の短編から採られているようで、

この街は地球上に到る所にあります。ただ目下のところたいへん薄いだけです。

稲垣足穂「薄い街」

という詞書が付せられている。私はこの歌にこの歌集の特徴が凝縮されているように感じた。どこか身近で親しみをもてる上の句から、下の句にかけて違和感なく流れるように抽象的な「薄い街」へとつないでいく――実際に同じような構造をもった歌がこの歌集には多い。

階段にうすくち醤油香る朝わたしがいなくなる未来から

風の中めがねずらせばミルフィーユみたいにふるいあたらしい町

ざっくりと西瓜を切れば立ちのぼる夜のしじまのはての廃星

みずいろの風船ごしに触れている風船売りの青年の肺

ささいな日常からの大きな詩的跳躍、そして「未来」「町」「廃星」「肺」のような印象的な語で静かに、余情をもってまとめあげる、このあたりの技量には目を見張るものがある。

また、個性的なものの見かたに驚かされる歌も多い。例えば、

夏の朝なんにもあげるものがない、あなた、あたしの名前をあげる

喘ぎ、つつ、わが漕ぎ、ゆけば、自転車になりたい夏にさいなまれたい

まよなかにおなかがすいていつまでもにんげんでいるなんて、錯覚

うつくしいうみうし増えて増えて増えて増えて人を憎んでいる暇なんか

これらの歌は完全に佐藤弓生独自の世界で、あとはもう読者がついてゆけるか、ゆけないかの問題になってくるのだろう。

ここに紹介したのはこの歌集の魅力のほんの一部にすぎない。最後に数首引用してこの評を終える。

花器となる春昼後刻 喉に挿すひとの器官を花と思えば

赤い石鹸になりたいあたたかいあなたの手から溶けてゆきたい

夢を碾く わたしのゆめがどなたかのゆめの地層をなしますように

うつくしい牛の眼をして運命がまだやわらかいぼくを見ていた

2010年12月27日月曜日

眼鏡屋は夕ぐれのため

佐藤弓生の第二歌集『眼鏡屋は夕ぐれのため』(2006、角川書店)を読んだ。この本を開くと、まず最初のページに、表題歌の

眼鏡屋は夕ぐれのため千枚のレンズをみがく(わたしはここだ)

がある。「(わたしはここだ)」でもう佐藤弓生の世界にどっぷりつかってしまったような気分になる。

この歌から彼女の歌がずらずら続くのだが、読んでいるときの私は「すごい・・・こんな表現が」と、感心してみたり、「な・・・なんだと」と、驚愕してみたり、「・・・・・」と思考停止してみたりいろいろ大変だった。

彼女のことばの使いかたは常人のそれをはるかに超越している。例えば、

冬の日のブルックナーの溜息のながながし夜を知れ新世紀

という歌がある。この歌は、柿本人麻呂(660頃~720頃)の

あしひきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む

の本歌取で、かつ作曲家のブルックナー(1824~1896)の名前を入れている。普通こんなことをしたらわけのわからないジョークみたいな歌に終わってしまうだろうが、「知れ新世紀」という恐るべきセンスの結句によって、時空をこえた何か巨きな流れのうねりのようなものを感じさせる短歌になっている。他にもおもしろい歌はたくさんある。

人工衛星サテライト群れつどわせてほたるなすほのかな胸であった 地球は

こんなにもきれいにはずれる翅をもつ蝉はただひとたびの建物

この2首は、従来の感覚ではありえないぶっとんだ比喩を用いているが、不思議と「地球」や「蝉」の本質をついている気がする。他には、

死ねカワラヒワのように、と歌ったらなにかやさしく お茶にしましょう

ほのひかる貝のごとくを耳に当てもしもしそちらシルル紀ですか

こんな歌がある。この2首は、「「死ねカワラヒワのように」ってどんな風に死ねばいいんだよ、しかも最後「お茶にしましょう」かよ」とか、「いきなり「シルル紀」に電話するな」とか、つっこみどころ満載で楽しめる。しかし、それだけではない。「カワラヒワ」と「シルル紀」という語の、発音した感触が素晴らしいことに注目してほしい。こういう優れた語感を持った単語を逃さず(普通に考えて「シルル紀」を歌にするのは難しい)歌にするあたり、詩人としての類まれなセンスを感じる。あと、戦争を扱った作品も興味深い。

戦争が好き 好きだからもうテレビつけないでいてほんものじゃない

詰められて終点までを――ほろこーすと――朝の車両に雪はふりつつ

どうしてもいやになれない 戦争よ もっとはらわたはみだしてみて

第二次世界大戦も終結してすでに半世紀以上たち、若い世代の日本人にとって、戦争というものはどこか遠い、抽象的な概念のようになっている。こういった今の日本人の戦争観を、過激な表現をソフトに見せることによって不気味に描き出している。

ここに紹介したのはこの歌集の魅力のほんの一部にすぎない。最後に数首引用してこの評を終える。

いらんかね耳いらんかね 青空の奥のおるがんうるわしい日に

知らないひとについて行ってはいけませんたとえばあの夕陽など

身のうちの道の暗さにひとすじのミルクをそそぐ さあ行きなさい