2013年4月2日火曜日

早稲田短歌42号

『早稲田短歌42号』(早稲田短歌会)を読んだ。

今回の早稲田短歌についてちょっと気になったのは、何やら斬新で挑戦的な意味内容を誇る一方で、短歌の韻律については妙に保守的な印象を受ける作品が多かったことだ。この奇妙なアンバランス感、言葉の意味としての作者の情念が突出して、文体が置き去りにされているような感覚が、私の中に大変な違和を生み出してしまっている。

そんな中、中盤に3つ連続している山中千瀬の連作(「ロード・ムービー」、「グランド・フィナーレ」、「クレジット」)に見られる作品群が、際立った存在感を放っているように思えた。特に面白いと思った3首を引用したい。

サーカスは黙って行ってしまった。置いていかれた町で暮らした

空想のなかに何度も水没の故郷を きれい。きれい。と言った

あまつぶが町をあざやかにしていく(見てなよ)生まれたいのだね町

一見して、虚構世界の鮮やかな描写が印象的であるが、それと同時に、言葉が動いていることに注目したい。動いている、というのは、例えば二首目の「水没の故郷を きれい。きれい。と言った」の部分であるが、ここでは、「故郷を」と「きれい」の間に一字空けを挿入して、2つの「きれい」を句点で区切っていくことによって韻律が断続的に加速し、更に2つの「きれい。」が第四句と第五句にまたがることによってそのテンションが減衰しない。と、これはやや個人的な解釈かも知れないが、いずれにせよ、三首目の「(見てなよ)」が印象的であるように、繊細に配慮された表記と、巧みな句跨り的構造がもたらす、「普通の短歌的韻律」からちょっと冒険したような、独創的過ぎない独創的な韻律が、どこか日常の影が感じられる虚構世界の描写と重なって、作品の世界へと読者が踏み込むことを容易にしていると云えるだろう。

最近、小説界隈からの短歌批判をいくつか読んで、短歌の面白さとはなんだろうかと考えていたのだが、それは何も特別なことではなくて、短歌の定義にその答えはあるのではないかと思う。つまり、「短歌は短くて、独自の韻律を持つ」ここに尽きるのではないであろうか。意味や内容の充実を主に楽しみたいのなら、短歌よりも優れている表現形式はいくらでもある。それでも、短歌を読みたい。面白い短歌を読みたい。そういう意思で私は短歌を読み、短歌について書いているわけであるが、そんなときに、山中の作品のような、短歌の短歌的な部分に十分な工夫が感じられる作品を読むと、やっぱり短歌って楽しいよね。面白いよね。っていうことを再確認できて、またその先を見据えることができる。私は短歌の将来を悲観していない。

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