2012年11月17日土曜日

未踏

高柳克弘第一句集『未踏』(ふらんす堂)を読んだ。

この句集は、2003年から2008年までの年ごとにⅠ~Ⅵ章に分けられていて、いわゆる「編年体」の構成となっている。第一句集からここまで明確に編年体で構成するというところに作者の強い意図が存在していることは明らかであるから、この評でも時間軸に沿って句集を読んでいくことにする。

Ⅰ章(2003年)の冒頭に標題歌である、

ことごとく未踏なりけり冬の星

が掲載されている。この句に続いて若々しい清新な趣に溢れた作品が展開される。この句を見ればわかるように、彼の作品は2003年の段階で既に技術的に高度に洗練されている。本来ならば、初期からも多くの作品を紹介したいところであるが、この句集に於て、後半の作品と前半の作品を比べたときに、相対的に――あくまでも相対的に――通常の尺度では完成度が高いはずの前半の作品が雑に見えるという特殊な事情が存在しているため、敢えて後半の作品を中心にこの評では紹介する。

Ⅳ章(2006年)の冒頭付近に、

何もみてをらぬ眼や手毬つく

枯るる中ことりと積木完成す

かよふものなき一対の冬木かな

十人とをらぬ劇団焚火せり

突然このような趣向の作品が固まって存在していて驚かされた。不在の中にある種の調和を見出す特殊な精神性が前面に押し出されていて、特に一句目や二句目の不気味なほどの迫真性――「凄み」と云うべきか――には圧倒される。

これほどの達成を目の当たりにして、当然これからしばらくはこういう方向で詠むのだろうと予想してしまったが、この作風が固まって存在しているのはⅣ章の冒頭付近のみで、彼は直ちに次の作風に移行している。

この次に興味深く感じたのはⅤ章(2007年)にある、

一月やうすき影もつ紙コップ

額縁の直角夏の来たりけり

鳥渡るこんなところに洋服屋

この3句のような異常にシンプルな構造をもった作品である。このような簡潔な趣はⅥ章(2008年)に於て、

みどりさす絵本の硬き表紙かな

巻貝は時間のかたち南風

この2句に見られるような、より精神性が強く表れた作風へと発展している。

また、滑稽な、ウィットの効いた趣向はこの句集に年代を問わず存在しているものである。ただ、私の好みを云えば、前半の滑稽な趣向はあからさま過ぎて――若過ぎて――あまり楽しめなかったのに対して、Ⅵ章の、

六月や蝋人形のスターリン

酢の壜のきれいなままに夏終る

洋梨とタイプライター日が昇る

冬あをぞら花壇を荒らさないでください

この4句に見られるような抑えの効いた機知には存分に引き込まれた。

この句集には、俳句特有の不在の美学――或は無の美学――や、それを体現するものとしての簡潔な文体、また、作品に奥行きを与える滑稽の要素など、俳句のエッセンスが凝縮されている。このことは、高柳克弘の句に明らかに松尾芭蕉の影響が見られることからも判るように、彼の先人に対する真摯な研究の成果を表している。一方で、彼の作風はまだ留まるところを知らない。元来俳句は四季の流転を主題とする詩形であったが、この句集では作風もまた流転する。彼が詠んでいるのはあくまでも現代なのである。芭蕉を初めとする偉大な先人の影がオーラとなって彼の句を支える一方で、彼が志向するのは古典回帰などではなく現代の抒情であって、先人の達成を踏まえた上での新しい試みも存分に見られる。過去から現代までを包摂した、「全時代的俳人」、高柳克弘のこれからの活躍に注目したいと思う。

2012年11月11日日曜日

塔 2012年11月号秀歌選

短歌結社誌『塔』の11月号を読んだ。今月も秀歌選をつくってしまおうと思う。『塔』2012年11月号に掲載されているすべての短歌より6首選んだ。掲載順に記す。

1 知らない街の写真を飾る知らない街はずっと夕暮の街でいるから  廣野翔一

2 ブランデーのかをりの抜けぬ空瓶に耳を寄せれば金糸雀カナリアのうた  磯部葉子

3 まばたきのたびにあなたを遠ざかり息浅き夏を髪しばりたり  大森静佳

4 視ることの昂ぶりにいる 空間を圧しながら輪をひらく花火は  大森静佳

5 雲のことあなたのことも空のこと 振り切ることのいつでも寒い  大森静佳

6 肉づきのよい雲きらい 川べりを水の速さに遅れて歩む  大森静佳

1は、随分と当り前のことをいっているようだけれど、人為の集合体である「街」の中から「夕暮」というアスペクトのみが抜き取られた、切り捨てられた街、という存在にどこか惹かれるものを感じた。

2は、視覚と嗅覚と聴覚の魅力を「空瓶」に集約させた楽しい作品。「金糸雀カナリア」という表記は成功しているようには思えないが、「カナリア」も最善とは云えない。このあたりが短歌の難しいところである。

3、4、5、6の大森静佳の、映像性と身体性が不可思議に入り組んだ作風は既に円熟の境地に達していると云えよう。川の流れのような流動性と強さを秘めた、激しい動きを見せる韻律、5の「寒い」、6の「きらい」のように、読者の意表を突いてふいに差し込まれる言葉の強度――他のどの現代歌人にも見られない独自のスタイルが素晴らしい完成度をもって展開されている。

2012年11月5日月曜日

未来 2012年11月号秀歌選

短歌結社誌『未来』の11月号を読んだ。今月も秀歌選をつくってしまおうと思う。『未来』2012年11月号に掲載されているすべての短歌より11首選んだ。掲載順に記す。

1  見やる方松の枝の間に雨傘を畳みつつゆく人遠さかる  米田律子

2  向上心のないものは馬鹿だと鳴いているセミ白球に潰されて死ね  増金毅彦

3  国会を囲む群集 投石はなくとも晩夏の風鈴は鳴る  増金毅彦

4  「正しさ」が客観性をもつことはない。  ただルールというものはある。  増金毅彦

5  こういった時勢に右によりたがる我こそ悲しき大和男子よ  増金毅彦

6  ぽんぽんと夏音のする夕暮れに駆けてゆきます真っ赤な鼻緒  篠宮香南

7  じんわりと沁みてくれればそれでいい。ウェルメイドでハートフルで  鈴木美紀子

8  自転車で港まで来た老人が海を飽かずに眺めてゐた  小野フェラー雅美

9  目が合ふと恥づかしさうに空を見てそこに鴎が飛んで騒いだ  小野フェラー雅美

10 北海の港はいつか軍艦で埋まつてゐたと静かなはなし  小野フェラー雅美

11 遠い遠い昔のことと思ひたいところがそれは未来のことだ  小野フェラー雅美

※4のスペースは「二字空け」。9の「鴎」は原文では「鷗」。「鷗」が環境依存文字であるため止むを得ず「鴎」と表記した。

1は、歌の「姿」が美しい秀作。

2、3、4、5は「未来広場 みらい・プラザ」に掲載されている「五輪後」というタイトルの4首(本誌に掲載されているのもこの4首のみ)。

私は現代短歌に於るいわゆる「社会詠」というものについて相当に否定的な立場を取っている。と云うのも、社会詠の多くにはそれが短歌である必然性――散文に対する優位性――がほとんど感じられないからである。短歌に於て社会的な見解を表明しようとすれば、必ず言葉足らずになり、真摯な社会批評にはならず、どれほど完成度が高くなったとしても、デマゴギーとしての意義しか持たない――と云うのが私の見解である。

増金毅彦の4首も多分に社会的な主張を含むが、通常の社会詠とは状況が異なる。ただ社会に対して意見を表明したり、ちょっと皮肉をぶつけてみたいと云うわけではなくて、社会と自己を照らし合わせた上でのある種の個人的な、内面的な表出が色濃く見られる。そのような特殊な抒情と、2の奇異な構想、4の「二字空け」に象徴される個性的な作風が調和して、読者を引き込む強い力を持った作品が成立している。

――「鼻緒」の意外性。

7の、「ウェルメイド」も「ハートフル」も随分とダサい形容詞である――「ハートフル(heartful)」は和製英語である可能性もある(英語では普通"heartfelt"と云う)――けれど、「で」で並列されることによって不思議な韻律と抒情が感じられて楽しい。

私はこれまで外国を短歌や俳句に適切に詠み込むことは困難であると考えていた。これは例えば夏目漱石の俳句を読んでいると、イギリス留学中に良い作品が少ないというようなことから来た考えなのだけれど、8、9、10、11の小野フェラー雅美の作品を読んで、どうやら一概にそういうわけではないらしいということに気づいた。漱石のイギリス滞在中に優れた作品が少ないのは彼が「異国」としてイギリスを見ていたからであって、より自らに近いものとしてその国を意識し、その風土にふさわしい韻律を採用すれば日本以外の国についても良い歌をつくることは十分に可能なようだ。

作者と「老人」の邂逅を軸に、脇役の「鴎」や「軍艦」が顔を出す物語性の高い世界観が美しい。

2012年11月2日金曜日

短歌研究 2012年11月号

短歌総合誌『短歌研究』(短歌研究社)の11月号を読んだ。今号は創刊八十周年記念と云うことで、多くの歌人が参加する充実した内容となっている。中でも、吉田竜宇の連作「白の距離」と山崎聡子の連作「手のひらの花火」が面白かった。

まず、吉田竜宇の「白の距離」には、

血液はしずかに巡りてのひらを満たすそのようにして季節は

晴れた日に見える全ての青色をただ空と呼び手紙に書いた

マルジェラのタグのすべてに丸をつけ白い鳥しか飛ばない国へ

こういう歌があるのだけれど、一読して斬新な視点と洗練された韻律が印象に残る。

一首目と二首目は、「季節」、「空」という普遍的なテーマを独自の視点で読み直すことによって、古典性から解放された現代的なモティーフとしての新しい活力が与えられている。一首目の下の句の、「そのようにして」の美しい句跨りから、「季節は」と倒置的にまとめる余韻たっぷりの結びが素晴らしい。

三首目の「マルジェラのタグ」がどういうものか私は知らなかったのだけれど、ベルギーのファッションデザイナーマルタン・マルジェラの、タグの0~23までの数字に丸を付けてコレクションラインを示す個性的なスタイルのことを指しているらしい。実物を知っていると、「すべてに丸をつけ」た状態を視覚的にリアルに把握できるけれど、知らなくても十分に楽しめる奥行きを持った作品だと思う。

山崎聡子の「手のひらの花火」には、

屈折ののちの明るい日々のなか夜風を裸眼の両目におくる

感情はときに水場のようにあり揺れるぬるい水、あたたかい水

どれほどの渇望かもうわからない君とゆっくりゆくアーケード

モハメド・アリの背中に青い影が立ちほのおのように燃えていた夏

暗転とそして明転 くりかえしくりかえし朝と夜を迎える

へび花火ひとつを君のてのひらに終わりを知っている顔で置く

こういう歌があるのだけれど、豊かなアイディアと、刺激に満ち、かつ心地よい韻律に新鮮な驚きを覚えた。山崎聡子の作品を読むのは私にとっては『短歌研究』2011年2月号以来だけれど、当時と比べると、独自の韻律の成熟、構想の深化がはっきりと伺える。

三首目の「アーケード」、四首目の「モハメド・アリ」、六首目の「へび花火」は、短歌全体の描写の中で、それ単体に生じるありのままのイメージからは離れた独自のモティーフとして機能している。

二首目の「ぬるい水、あたたかい水」、五首目の「暗転とそして明転」というフレーズも印象深い。こういう相対する語を並べる手法自体は特に珍しいものではないけれど、対比させる語の選択、一首全体になめらかに滑り込む韻律が印象的で、この手法の新しい可能性を示しているように思う。

二人の作品には、現代短歌の新しい可能性が存分に感じられる。八十周年を迎えた「短歌研究」が、短歌界の最先端の動きを感じとれる媒体としてこれからも機能してくれることを願いたい。