2013年6月4日火曜日

ひとのこころをたねとして

『京大短歌19』に掲載した評論「ひとのこころをたねとして――古今和歌集の方法:重なり合う文脈の饗宴――」を公開します(この文章上のリンクをクリックして下さい)。最新の研究によって明らかになってきた『古今和歌集』のオリジナルな魅力と技法を、本格的に、かつ誰にでも分かるように、従来の用語を用いずに解説しました。最終章には、今、古今和歌集を語る意義についての私見を付しました。5月18日(土)の中日新聞(東京新聞)の夕刊で加藤治郎氏に「十九号の白眉」との評価を頂いています。小松英雄氏の『新装版 みそひともじの抒情詩 古今和歌集の和歌表現を解きほぐす』(2012、笠間書院)に拠った部分が大きいです。学生短歌会誌に載せている都合上、歌人を想定読者とした文体になってますが、歌人ではない方にも読んで頂ける内容となっています。御感想を頂けると嬉しいです。

4 件のコメント :

  1. こんばんは、周凍です。
    私は歌人ではありませんが、とても面白いものを読ませて頂きました。

    以前、安達さんのお歌にはコメントさせて頂いた事がありましたね。
    ほんの少しのやり取りでしたが、短歌というものとの向き合い方に私とはかなり相違があると思ってしまったので、こちらにお邪魔する事もありませんでした。
    今回、ネットを検索していてこの小論を読ませて頂いたのも何かの縁、ということで、少しだけ。

    現代短歌世界において、新しい短歌表現を生み出そうとするならば、私は折口信夫が大正十五年に著した小論『歌の円寂する時』の中で提示された次のハードルを超える必要があると思っています。


    歌はこの上伸びようがなく、歌は既に滅びかけて居る。
    歌を望みない方へ誘う力は、私だけの考えだけでも、尠なくとも三つはある。
     (1)歌の享けた命数に限りがあること
     (2)歌よみが、人間が出来ていな過ぎる点
     (3)真の意味の批評の一向出て来ないこと


    中世の歌論書などを詠んでいると、新古今の比でさえ既に(2)と(3)は問題視されていますね。非常に重要な事ですが今は置いておきましょう。問題は『歌の享けた命数』というのが何かと云うことです。
    さて、彼は歌というものの何を(何処)を見てこのような言葉を残したのでしょう?
    仮に『新しい短歌表現』があるとし、それが安達さんの小論にある『異質な価値体系』を踏まえたものであるとして、果たして、釈超空のいう『歌の享けた命数』を延ばし得るものとなるのでしょうか?

    彼は一方でまた『古語復活論』という小論も書いていますが、その中で展開されている考えに対してはどのようなスタンスを取るべきか?

    そもそも『異質な価値体系』とはどのようなものなのか?何故それを失ってしまったのか?それを回復する手段は?など少々曖昧なところが残りましたが、『新しい短歌』が生み出された暁には、きっとそこに見出す事ができるのでしょう。

    お気に召さない感想になったかも知れませんが・・・これからも、色々と考えなければならない事はありそうです。

    また、面白い文章を読ませてください。
    ありがとうございました。

    周凍拝

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    1. 釈迢空をミスタイプしていますね。大変失礼いたしました。

      周凍

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  2. こんばんは。お久しぶりです。

    釈迢空の3つのポイントは面白いですね。(2)と(3)はもうどうしようもないんじゃないでしょうか。歌壇のような狭い世界では、自己顕示欲とか嫉妬とか、人間関係の醜い部分がやたらと目立つのは事実ですし、歌人の書く批評の多くは、内輪の目を気にし過ぎて、批評としての最低水準を満たしていないのもまた事実です。

    しかし(1)はどうでしょう。これはちょっと違う気がします。確かに短歌というものは、全体を見るといかにも停滞していて、未来がないように見えますが、万葉の時代から現代まで常に新しい表現は生まれ続けています。

    例えば、一昔前まで常識だった「短歌は文語で詠むもの。定型との関係上口語との相性は良くない」という考えは現代短歌には通用しません。確かにきっちりとした定型と口語との相性は悪いのですが、句跨りを大胆に許容することによって口語を短歌のリズムに載せることに成功した、このことは現代短歌の大きな発見だったと思います。また、口語短歌が明確に成立することによって自明ではなくなった文語表現にではどのような新しい可能性を見出すか、ということも問題になってくるわけです。

    僕の論については、ちょっと結論を綺麗にまとめたくなる傾向があるというか、やや大袈裟に書いてしまったところがあって、古今集時代の価値観を復活させたいというよりは、新しい短歌表現をインスパイアされるリソースとして古今集のような古典短歌も十分あり得る(このリソースというのは、もちろん実際の人間関係だったり、自然観察だったり、小説だったり漫画だったり映画だったりなんだりするわけですが)ということを示したかったのです。

    たとえそれが過去のものであっても、新しいものは常に新しいんじゃないかと、そう思うんですよね。

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    1. お返事ありがとうございます。

      確かに(2)と(3)はどうしようもないのかもしれません。また私自身、釈迢空のいう(1)がどういう事なのか理解できていません。あれほど古典に長けた人の意見なので安易に否定できない、という感じです。ただひとつ、3つの中で詠み手自身が直接働きかけることができるのは(2)だけ、という点は見落としたくないですね。

      ひとのこころは、その人が扱い得る言葉によって形づくられます。言葉がそして宇宙(混沌)から掬い上げた一つの秩序体系だとすれば、本来的に閉じたものですから、歌壇の現状も押して知るべしといったところでしょう。

      >たとえそれが過去のものであっても、新しいものは常に新しいんじゃないかと、そう思うんですよね。

      同感です。古典短歌にしろ、口語短歌にしろ新しいものへの気付きがパラダイムシフト(これも古臭い言葉ですが)を生起します。『萬葉集』から『古今集』そして『新古今集』へと、いずれも価値観の置き換えの歴史を示すものともいえます(大方は歌体や技法の変化に目が行ってしまいがちですが)。「過去のもの≠絶えたもの」という観点から古典に立ちかえり、未来の短歌の可能性を示唆しているところを面白く感じたのでした。

      信じて頂けないかもしれませんが、私も学生のこころは失っていません。^^
      お互いに精進いたしましょう。

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