2014年3月20日木曜日

no.7

ゆびさきを針でつつけばさらさらの血がうつくしくみとれてしまう

岸原さや『声、あるいは音のような』

血がうつくしくみとれてしまう――下の句に主題が率直に示される。たっぷりと14音を使って、素直に。しかしこれだけでは詩は成り立たない。ディテールは上の句に示される。

小さい「ゆびさき」をさらに微小な「針」の先でつついて出来上がったごく小さな起点、その起点から「血」が流れ出す。そしてその血は、粘性のない、「さらさらの血」だ。極めて細い血の筋がゆびに淀みなく流れるさまが想起され、このとき、作品世界内の作者の意識と読者の意識は奇跡的に一致する。私はその血を見て、美しさに、みとれてしまう。

2014年3月19日水曜日

いただきを去る

吉田山に登る。こういう身近なところから、また始めてみるのも悪くはない。

しじみ蝶は枯葉にまどふ栗色の翅をしてすこしも動かない
朽ちはてた椿のかをり確かめて春の陽のさすいただきを去る

2014年3月16日日曜日

手のひらの花火

山崎聡子の第一歌集『手のひらの花火』(2013、短歌研究社)を読んだ。この歌集は作者の「短歌をはじめた十九歳のときから最近つくったものまで」の作品を集めたもので、歌集前半の歌には定型にきっちりあてはめたようなややぎこちない印象を受けるものが多いのに対して、歌集中盤以降徐々に独自の文体を獲得していくような過程が確認される点から、編年体に近い形式で編まれたものだと思う。この評では、文体に十分な成熟が見られる歌集終盤の歌のみを扱う。

息が夜に溶けだしそうで手で覆う映画を生きてそして死にたい

この歌集には映画の印象的なシーンを切り抜いたような作品が多い。生活感を漂わせつつもどこかふわふわとしたフィクショナルな空気感があるというべきか。

ともに住むこわさを胸にのみこんでかすれた声で歌うバースデー

どれほどの渇望かもうわからない君とゆっくりゆくアーケード

ネオン目に映してわらいこの夜の弱さのことを語り合いたい

かすれた声で歌うバースデー、君とゆっくりゆくアーケード、この夜の弱さのことを語り合いたい――この歌集を読んでいて、こういった言い回しに最も強い魅力を感じる。なんだろう。どう云うべきだろうか。心が温かくなるようなどきどきする感じ、それでいてなんだか安心できるような感じ。ゆったりとした文体と作品内での時間の流れが調和するようで心地良い。

光をモティーフにした作品が多いのも印象的だ。ここではそのうちの4首を個別に見てみたい。

屈折ののちの明るい日々のなか夜風を裸眼の両目におくる

光の「屈折」と心理的「屈折」が重ね合され、そこからの開放が描かれる。眼鏡やコンタクトによる過剰な「屈折」を経ない「裸眼」ではあるが、そこにあてられるのは光ではなく「夜」の「風」であることに注目したい。

暗転とそして明転 くりかえしくりかえし朝と夜を迎える

日々の生活が光の明滅に置き換えられる。前半は暗転→明転、後半は朝(明転)→夜(暗転)と、順番が入れ替えられることによって、光と闇の――朝と夜の――転換はほとんどひとつに重なるかのように加速して感じられる。

冷凍庫のひかる氷よわたしたち言葉もこうして覚えていった

記憶の源泉としての光。

目を閉じて音だけを聞く映画にも光はあってそれを見ている

光は見えていないはずである。しかし「光はあってそれを見ている」。4首に共通して「光」は視覚の要因としての「光」に留まらず、それは記憶であったり、感情であったり、あるいは生活そのものであったりする。

山崎は「あとがきにかえて――記憶を感光させること――」に於て、自らの歌作りを「記憶や感情を短歌という形に感光させる」と表現している。私たちが歌集から直接得られる「光」は文字であり、言葉なわけだけれど、そこに込められている諸々の「光」も見えるような、光を感じられる歌集『手のひらの花火』、不思議な魅力を放つ作品だと思う。

ここに紹介したのはこの歌集の魅力のほんの一部にすぎない。最後に数首引用してこの評を終える。

海と川が交わる町の匂いなど(晴雨)からだに知らしめてゆく

電車って燃えつきながら走るから見送るだけで今日はいいんだ

へび花火ひとつを君の手のひらに終わりを知っている顔で置く

2014年3月9日日曜日

てのひらを燃やす

大森静佳の第一歌集『てのひらを燃やす』(2013、角川書店)を読んだ。この歌集は編年体でI~III章に分けられていて、I章は第56回角川短歌賞を授賞した連作「硝子の駒」から始まっている。そこにある印象的な歌を引いてみよう。

冬の駅ひとりになれば耳の奥に硝子の駒を置く場所がある

とどまっていたかっただけ風の日の君の視界に身じろぎもせず

美しく、はかなくも気品があり、それでいて脳裏に残る強さがある。

歌集前半は、このようにどこかはかない雰囲気を醸しつつも、文体は均整がとれていて、意味内容もわりとすんなり納得できるような作品が多いのであるが、II章の途中から、次のような毛色の異なる作品が現れ始めることになる。

つばさすらないのに人は あまつさえ君は夕暮れに声低くする

憎むにせよ秋では駄目だ 遠景の見てごらん木々があんなに燃えて

え?というのが第一印象だ。つばさすらないのに人は、憎むにせよ秋では駄目だ――突然呼びかけるように放たれた強い言葉に戸惑いを覚える。この歌集の最初から大森の言葉は強かった。しかしこの突き刺さるような強さはなんだ。異常に強いと云うべきか。

そして一字空けを挟んだ後半部分「あまつさえ……」、「遠景の……」の前半部分との論理的整合性に、I章に見られるような明解さがないことにも注目したい。この辺りから大森は、読者にとっての分かり易さをある程度無視してでも、表現すべきものがあることに気づいたのではないだろうか。この傾向はIII章でさらに強くなり、例えば

雲のことあなたのことも空のこと 振り切ることのいつでも寒い

という歌がある。ちょっと想像しただけでいろいろな解釈が立てられそうな不確定性に満ちた歌だけれど、最後の「寒い」。これだけは随分はっきりとイメージできる。寒い。私にも確かに寒く感じられるのだ。具体的に説明しろと云われたら困るのだけれど、寒い。寒いのだ。

大森はある時期に、情景を読者に客観的に説明するための言葉を用いることを辞め、より直観的な感情との対応で生まれた言葉を用いるようになり、それは云い換えれば自我そのものとしての言葉、更には自我に先行する何かとしての言葉なのだと思う。全体の描写の中で単語やフレーズが際立って強く感じられる歌があるのはそのためではないだろうか。

どうにかして抱きしめたいような言葉 さようなら、と笹舟を流すように言う

声は舟 しかしいつかは沈めねばならぬから言葉ひたひた乗せる

言葉によって説明された作者の内面の迫力、ではなく、作者の内面との対応で生まれた言葉、言葉そのものの迫力――そしてその言葉が流し込まれる韻律にも注目すべきものがある。

売ることも買うこともできる快楽、と思いつつはぷはぷ牛乳を注ぐ

まばたきのたびにあなたを遠ざかり息浅き夏を髪しばりたり

大森は基本的に定型に忠実な歌人であるが、その韻律は感情の脈動に沿うように流れ、その昂ぶりに呼応するように時として字余り気味にふくらむ。

この歌集の中で、常人離れした大森の感性は一貫したものであるが、後半に進むにつれて言葉や韻律の使い方がより短歌という言語芸術の核心コアに近づいてゆくように感じた。私は大森の作品の思想内容に必ずしも共感的な読者ではないが、そういった共感/非共感の壁を越えて伝えるだけの力を、彼女は既に得ているように思う。

ここに紹介したのはこの歌集の魅力のほんの一部にすぎない。最後に数首引用してこの評を終える。

後戻りするものだけがうつくしい枇杷の種ほど光る初夏

奪ってもせいぜい言葉 心臓のようなあかるいオカリナを抱く

こころなどではふれられぬよう赤蜻蛉は翅を手紙のごとく畳めり

生前という涼しき時間の奥にいてあなたの髪を乾かすあそび

参考文献
岩尾淳子「大森静佳 「てのひらを燃やす」」(2013、『眠らない島』)