2013年2月7日木曜日

未来 2013年2月号秀歌選

短歌結社誌『未来』の2月号を読んだ。今月も秀歌選をつくってしまおうと思う。『未来』2013年2月号に掲載されているすべての短歌より9首選んだ。掲載順に記す。

1 いずれあなたの戸閾とじきみを踏むあしうらを今日は真水に浸しておりぬ  村上きわみ(以下同じ)

2 風下に咲く大叔母の簪をかろうじてこの世からながめる

3 くちなわを濡らすひかりのあまやかな記憶の底に凝る、何度も

4 濃紺の守衛の胸に伏せられて書物は冬に似たものになる

5 白湯だけが親しい夜の入り口でいいよあなたの六腑になろう

6 (ゆるすとかゆるさないとか)恥ずかしい釜揚げうどんぞるぞるすする

7 啜ったり舐めたりするひと ひ って言ういのちだ なんとしてもかわいがる

8 泣くまいとしている人にひとつずつ滝を差し入れて暮らしたい

9 (いきものがひくく構えていることのかけがえのなさ)咬みにきなさい

村上きわみの「戸閾を踏む」(「2012年度未来年間賞」として、一年の投稿歌の中から秋山律子が選んだ作品集)の読み応えが尋常ではない。

まずめまぐるし動く作中主体の視点がこの連作の醍醐味のひとつであろう。2では現世と来世の境界に存在している作中主体が、6では「釜揚げうどん」を「ぞるぞるすす」っていたりする。更には5では、「あなた」の身体に同化する意思――或は未来――が表明され、8、9ではやや超越的な視点が導入される。このように作中主体は通常の自我の枠組みを完全にはみだしてしまっているが、「はみだしている」のはそれだけではない。

驚くべき短歌表現の柔軟性を見てほしい。句跨りや、一字空け、句読点、パーレンなどの表記的な技術に支えられた、言葉の緩急によって形成される情感の脈動が、描写を越えて読者の心に叩きつけられる。特に印象深いのは、6の「ぞるぞる」や7の「ひ」のような音の扱いである。「ぞるぞる」のような擬音語は、短歌に限らずあらゆる言語世界で無自覚かつ大量に再生産され、その過程で語が本来有していたであろうテンションの一部を失っているように思える。「うどん」を「すする」シーンに対してメジャーな擬音語であると思われる「ずるずる」を使用したのでは十分な効果が得られなかったことであろう。また、7の「ひ」というひらがな一字で表された声を「いのち」と等価なものとして提示する手法も興味深い。このような音――それ自体は短歌の構想的にはほとんど無内容ともいえる表現――が、前後の言葉との有機的な関連に於て、選択され得るあらゆる理知的な描写を凌駕する可能性があることが彼女の作品に示されていることは、現代短歌の表現を考える上で示唆深いものがあるように思う。

2 件のコメント :

  1. HaraTetsuya2013年2月14日 14:26

    1 いずれあなたの戸閾(とじきみ)を踏むあしうらを今日は真水に浸しておりぬ  村上きわみ
     (安達さまの、読み応えが尋常でないというので、3度、4度、読み返してみてようやく感じました。初々しく、清冽なロマンを)
    6(ゆるすとかゆるさないとか)恥ずかしい釜揚げうどんぞるぞるすする
     (うどんが好きなので、すすりながら味わいました。これも初々しさが感じられて。私などには、とうに忘れ去った思いです)
    9(いきものがひくく構えていることのかけがえのなさ)咬みにきなさい
     (感受性の鋭い詠い方、態度。犬を飼っている私には、なんだか分かるような気がします。犬、猫のひたむきさを鋭く捉えて)

     あなた様が賞賛される、大森静佳さんのテレビ出演を見ました。2/10(日)の「NHK短歌」のネクストジェネレーションのコーナで、一首と短歌への思いを披露されました。魅力的な女流ですね。

    ふる里で、よきお正月を過ごされたことでしょうか。
    松尾剛次著「中世都市鎌倉を歩く」(中公新書)1997年を読んで、わずかに昔の関東を垣間見ています。鎌倉は一度だけ訪ねたのも読書の手助けになります。
    あなた様も、鎌倉をご存知のことでしょうか。

    ご自愛のほど祈ります。/e

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  2. 大森さんの映像は僕も見ました。いつもはもっとクールなんですけどね。

    鎌倉は近いんでよく行きますよ。鶴岡八幡宮の大銀杏が最近倒れてしまったのが印象的で…。

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