2012年6月10日日曜日

どこまでも瞳は見えない

奈良・斑鳩へゆく。斑鳩の法輪寺、法起寺のような、外界と厳格に区画されず、町の連続性のなかにゆるやかに取り込まれた寺院のありさまは、学ぶものとしてではなく、感じられるものとしての「歴史」の側面を示しているように思う。

五重塔重く立ちたり興福寺鳩は翼を黒くなびかせ
崩れ落ちた肌をたたへて遠近をちこちの十二神将黄昏の中
どこまでも瞳は見えない栗色のまなこゆるませねむりゆく鹿
土壁に白く陽は差しうぐひすもほととぎすも鳴く斑鳩の里
黒い蟻が巣からでてくる何事か為して戻つてくる蟻もゐる
連なりて飛ぶ蝶のゆく軒下に紅く咲きたる紫陽花を見つ
青空を背景として電線にとどまる黒い鴉の黒さ
葡萄畑の匂ひ嗅ぎつつまだ青い果実ばかりの夢をみてゐた

2012年6月2日土曜日

開放区 第94号

短歌同人誌『開放区』(現代短歌館)の第94号を読んだ。

94号――短歌の同人誌で94号というのは『京大短歌』が18号、『早稲田短歌』が41号であることを考えれば驚くべき数字であることがわかる。「同人」という不確かな結び付きのもと、これだけ長く歌を残し続けていることに敬意を表したい。

震災詠や、老いを扱った歌が多い中、石川幸雄の連作がおもしろく感じられた。「諷刺訛傳(FUSHI KADEN)」という、過剰にふざけたタイトルが目を引く。

番傘風洋傘開く人といる氷雨の晩はあまねく京都

大阪の女を知れば大阪のことばに焦がれ歌う大阪

東京に雪積もる日は雪平鍋ゆきひらで姉が作りし甘酒を恋う

こういう歌を詠む歌人は珍しい。粋と云うべきなのか、泥臭いと云うべきなのかわからない人間味のある内容や、ある種の「拙さ」を含んで一気に流れ着く文体には、他の歌人にはないものがある。一首目の「傘」、二首目の「大阪」、三首目の「雪」のやや安直な繰り返しも、彼の歌の枠組みにおいては、高度なテクニックを弄するよりもむしろ効果的であると云えよう。

ところで、表紙の「わが歌を漢字一字で表すなら」というコラムが興味深い。今号では田島邦彦が「我」と答えている。曖昧な字を選ばず敢えて「我」を選んだととろに、アイデンティティを重視する彼の短歌観が如実に表れているし、積み上げてきた自らの歌への自負も感じとれる。こういうおもしろい企画を見ると、聞かれもしないのに自分もやってみたくなる。「わが歌を漢字一字で表すなら」、というよりは理想の一つとして、「無」がある。なにも無く、歌が聞こえてくるのをただ待つ。そんなスタイルに憧れているのかも知れない。