10月に詠んだ短歌をまとめておく。既にこのブログに公開した歌が4首、そうでないものが2首で、計6首。御感想を頂けると嬉しい。
淡海
青条揚羽(アヲスヂアゲハ)のからまりほどけゆく夏の終りの一呼吸 空の味
海のやうな湖がある場所にきて釣竿なげる父子をみてゐる
淡海のとうめいなみづ冷たくて終らない夏の終りを思ふ
瓦から生えたつる草もみぢする 園城寺 秋のはじまりのこゑ
ずいぶんと世界が薄いみづいろの空 地平線 をりかへす波
銀杏をふまないやうにかはしゆく花柄のシャツの背中が遠い
青条揚羽(アヲスヂアゲハ)のからまりほどけゆく夏の終りの一呼吸 空の味 (こうなると、自由律短歌の、もはや、短歌ではないのでしょうか。「空の味」は難解です)海のやうな湖がある場所にきて釣竿なげる父子をみてゐる (「「父子をみてゐる」次の歌の、「夏の終わりを思ふ」は、短歌の持つ力を弱めてはしないか)淡海のとうめいなみづ冷たくて終らない夏の終りを思ふ (「終わらない夏の終わり」は、どう解釈してよいのやら、とりとめもない作者の心を暗示しているような)瓦から生えたつる草もみぢする 園城寺 秋のはじまりのこゑ (「秋のはじまりのこゑ」は、園城寺から連想する、音声をイメージした響きのよい詞になりましたね。)ずいぶんと世界が薄いみづいろの空 地平線 をりかへす波 (率直に言いますと、「ずいぶんと」に替わる言葉がないものでしょうか。作者の心のイメージを詞にされたのでしょうが、老齢の私には、もはや分かりにくい)銀杏をふまないやうにかはしゆく花柄のシャツの背中が遠い (あなた様の緻密な写真を思い出すような、山頭火の「後姿の時雨れてゆくか」に近い感慨を抱きます) ご健闘されている姿を思い浮かべます。/E
一首目は初句の「青条揚羽(アヲスヂアゲハ)の」が八音の字余りで、あとは句跨りを含んだ定型なので、特に自由律的な要素はないです。鉄也さんは以前も僕の短歌を自由律ではないかと指摘されましたが、僕は今まで自由律的な歌を詠んだことはないし、これからも多分ないので、そのつもりでちょっと見方を変えて下されば定型が見えて来るかと思います。全般的に曖昧な表現が鉄也さんの好みには合わなかったようですね。確かに曖昧な表現は「甘え」に繋がりますが、一概にピシッとした表現が最善というわけでもなくて、そのあたりは僕もこれから試行錯誤してゆきたいと思います。
青条揚羽(アヲスヂアゲハ)のからまりほどけゆく夏の終りの一呼吸 空の味
返信削除(こうなると、自由律短歌の、もはや、短歌ではないのでしょうか。「空の味」は難解です)
海のやうな湖がある場所にきて釣竿なげる父子をみてゐる
(「「父子をみてゐる」次の歌の、「夏の終わりを思ふ」は、短歌の持つ力を弱めてはしないか)
淡海のとうめいなみづ冷たくて終らない夏の終りを思ふ
(「終わらない夏の終わり」は、どう解釈してよいのやら、とりとめもない作者の心を暗示しているような)
瓦から生えたつる草もみぢする 園城寺 秋のはじまりのこゑ
(「秋のはじまりのこゑ」は、園城寺から連想する、音声をイメージした響きのよい詞になりましたね。)
ずいぶんと世界が薄いみづいろの空 地平線 をりかへす波
(率直に言いますと、「ずいぶんと」に替わる言葉がないものでしょうか。作者の心のイメージを詞にされたのでしょうが、老齢の私には、もはや分かりにくい)
銀杏をふまないやうにかはしゆく花柄のシャツの背中が遠い
(あなた様の緻密な写真を思い出すような、山頭火の「後姿の時雨れてゆくか」に近い感慨を抱きます)
ご健闘されている姿を思い浮かべます。/E
一首目は初句の「青条揚羽(アヲスヂアゲハ)の」が八音の字余りで、あとは句跨りを含んだ定型なので、特に自由律的な要素はないです。鉄也さんは以前も僕の短歌を自由律ではないかと指摘されましたが、僕は今まで自由律的な歌を詠んだことはないし、これからも多分ないので、そのつもりでちょっと見方を変えて下されば定型が見えて来るかと思います。
返信削除全般的に曖昧な表現が鉄也さんの好みには合わなかったようですね。確かに曖昧な表現は「甘え」に繋がりますが、一概にピシッとした表現が最善というわけでもなくて、そのあたりは僕もこれから試行錯誤してゆきたいと思います。