2012年10月7日日曜日

開放区 第95号

短歌同人誌『開放区』(現代短歌館)の第95号を読んだ。

この『開放区』には、様々な個性の歌が掲載されているけども、敢えて傾向を云うなら、「現実直視」ということが挙げられのではないだろうか。原発詠を中心とした社会詠の占める比率が大きいこともその傾向を示している。短歌に於ける現実直視――これがどうも苦手である。何も『開放区』に限らずとも、結社誌の『塔』でも、総合誌の『短歌研究』でもなんでも良いのだけれど、短歌の雑誌を開いたらそこにはすぐに「現実直視」が顔を出す。いや、現実直視自体に文句を云いたいわけではない。例えば、

我を生みしはこの鳥骸のごときものかさればよれしことに黙す  齋藤史

これなんて現実直視の極みだけれど、定型を無視した、それでいてどこにも淀みがない怒涛の韻律によって、現実の惨たらしさを、なにか別の次元に昇華できていると云えるだろう。それが、今の歌人の現実直視になると、韻律や言葉の遣い方まで、すべて現実そのものというか、無骨な言葉で無骨な内容を無骨に描写して、それでこれこそが現実、人の世に救いなどなし、ということなのかも知れないけれど、読むほうとしては、やたら暗い気分になって、こんなことなら短歌なんて読まなければ良かった、ということになってしまう。現実直視も大いに結構であるけれど、読者が楽しめるような工夫について、現代歌人はもっと考えるべきではないか。

『開放区』の評から離れてしまったようだ。笹谷潤子の連作「記憶」の中の、

郷愁のイングランドよわれにさへ久しき昔とふ時のあり

この一首が心に響いた。遠いイングランドを「郷愁」と規定する作者の精神は、今、どこにあるのだろうか。

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