どつぷりと紅茶にレモン片 人に言へざる夢を見てしまひたり
安田百合絵「Trompe-l'œil」(『本郷短歌 創刊号』)
「どつぷりと紅茶にレモン片」という情景に「人に言へざる夢を見てしまひたり」という状況が対応したシンプルな構造の短歌である。人に言えない夢を見てしまったというのは、多くの人にとって経験がある共感性の高い事柄であろう。その事柄の手前にティーカップに挿み込まれたレモン片が提示されるわけだが、「どつぷりと」というのは、紅茶のレモン片の形容としてはやや量感が過剰なように思われる。この過剰さへの違和感が、「人に言へざる夢を見てしまひたり」の動揺と対応しているところに、この歌の抒情が立ち上がるのであろう。
と、散文的な解釈を示しただけではこの歌の魅力の半分ほども語れていないように感じるのは、恐らく気のせいではあるまい。この歌に触れて得られる感動の本質に、上述の散文的な解釈は辿り着くことが出来ない。韻文によってのみ可能な表現――或はその逆――は確かに存在するのであるが、この歌の場合は幸いなことに、その言語化がある程度可能なように思われるので、以下試みる。
この歌の韻文的な魅力の核には「紅茶にレモン片 人に」がある。第3句に「片」がはみ出し、一字空けて「人に」につながるスタイルが一見してユニークだ。この「片」のはみ出しの一次的な機能としては、「どつぷりと」のあり余る量感への貢献があるが、「片」はまた、この歌の「切れ」を構成しているという点においても重要である。上述したように「情景+状況」という構造上の切れは「片」と「人に」の間にある。そしてこの歌の「片 人に」が興味深いのは、通常の意味上の切れよりも強固な切れをこの場所にもたらしていることだ。
まず、一字空けには「切れ」を視覚的に明示する働きがあり、「片」と「人」が共に名詞であることもこの切れを強化する。また、「レモン+片」で「切り取られたレモン、レモンの切れ端」を表すように、「片」という語はその本質として切れている。このように、何重もの意味でこの部分は切れているわけであるが、それにも関わらず、「レモン片」が「人に言へざる夢」から離れて、どこか遠くへ行ってしまうというようなことはない。
それは、先述したように、この歌の解釈として、情景と状況が密接に対応していることによる部分が大きいが、それに加えて、「切れ」が第3句に存在していることにも注目したい。一般に歌人は第3句を無意識に歌の要として認識しているらしく、このような切れを第3句にもってくることはもちろんのこと、字余りさえも極度に嫌い、5音ぴったりでまとめてくるケースが極めて多いことが、以前個人的に試みた統計調査によって明らかとなっている(この調査の結果については後日発表したい)。このように緊密なまとまりを持つ第3句に強固な切れを置くことによって、「片 人に」は強固に切れていると同時に強固に結びついている。この激しい反発と激しい牽引とのせめぎ合いが、散文的解釈では説明しきれないこの歌の鮮烈なポエジーを生むのである。この点については、「いき」の構造を「媚態」の二元性に求めた九鬼周造の議論と関連付けても面白いかも知れない。
情景表現と心情表現を並置させる手法は現代短歌ではありふれたものであるが、この歌は、その切れ目に通常の意味的な対応を越えたつながりと反発を有している点で、類似する構造を持つその他幾千の現代短歌とは異なる。まだまだ短歌の表現手法には開拓の余地があることを予期させる点でも、この歌への興味は尽きない。