2014年2月27日木曜日

夢宮

笹谷潤子の第二歌集『夢宮』(2013、砂子屋書房)を読んだ。彼女は「あとがき」で

わたしは前歌集『海ひめ山ひめ』のあとがきで歌とは世界を測るものさしと書いたが、今は補助線のようなものではないかと感じている。自分の中だけにある情景を証明するために引く架空の線。そう考えると今のわたしの気持ちにしっくりなじむ。

と述べているが、まさに彼女の「中だけにある情景」として、この歌集には様々な世界が描き出されているように思う。例えば次の二首を見て欲しい。

朝顔とそを呼ぶごとく今朝ひらく新たなわれをまさに名づけよ

寒ければいよいよ甘し大根のやうなわれなり冬を愛する

作者の有様を動植物に喩える表現は珍しいものではないが、この二首の場合単純な比喩とするにはどうも「朝顔」と「大根」の存在感が強すぎるように思う。「今朝ひらく」、「寒ければいよいよ甘し」は植物の描写であって、人間に遣うそれではない。

この描写によって、開花する朝顔と、冬の大根の様子がヴィヴィッドに想い起こされるわけだが、それを「今朝ひらく新たなわれ」、「大根のやうなわれなり」というようにダイレクトに「われ」の描写につなげてしまうことには驚かされる。これは言い換えれば「朝顔」と「大根」に植物としての明確な他者性を認めつつ、「われ」と同格の存在として重ね合せている、更に云えば「われ」そのものとして彼らを扱っているということで、この謙虚さと強引さの自然な同居と云うか、外への観察と内への洞察が同時に行われているような感覚は笹谷のユニークな世界観の一端を表しているように思う。他にも彼女の世界観の面白さを味わえる作品を挙げてみよう。

帽子屋にあたまのかたち見込まれてつぎつぎかぶる春の日永を

この春は白き服着む今ここのすべてを映す旗となるため

帽子屋にあたまのかたち見込まれて、この春は白き服着む――ささやかな生活の一場面から歌は始まる。これから身につけるであろう帽子へ、白い服へと焦点が集まり、期待に胸が膨らむようであるが、いつの間にか帽子は「春の日永」へ、「白き服」は「すべてを映す旗」へと変身する。人物のシルエットに風景が映し込まれるルネ・マグリットの作品(下図『王様の美術館』(1966、横浜美術館蔵))を引き合いに出したくなるような空間把握であるが、笹谷の作品において注目すべきは「帽子」や「白き服」が作者――生活する私――に触れることによって初めて世界へ開かれた存在へと変化したことであろう。

このように「われ」と外の事象(世界)が接触することによって彼女の作品は様々な動きを見せるが、この歌集に於る「われ」と世界との距離は一定ではない。

草の城立ち上がりまた吹きくづれ自転車を止めガムを噛む間の

車窓より燃え立つ欅一樹見ゆまた水平にれゆくわれら

映画の登場人物のように世界の中に存在する「われ」。

生きかはり死にかはりしてとことはにすれ違ふのみ青火花立て

この世にはマニキュアの爪灯しおく夢の花野に遊べる時も

世界そのものが「われ」。或は「われ」の精神が編み出す世界。

水面に夕空流れいちめんのももいろの中飛ぶもの泳ぐもの

からつぽに風の入りては出てゆきぬガラスの器ならぶギャラリー

「われ」の捉える世界。或は世界から消えた「われ」。

おそらくこの歌集には明確に定められたコンセプトのようなものはないのだろう。「架空の線」を自由に引いて遊ぶ、その楽しさがこちらにまで伝わってくるようだ。しかしその一方で、「われ」と世界との境界が曖昧であること、そして「われ」との関係性の中で描き出される世界の様相が実に鮮やかで美しいことには、笹谷の個性が確かに主張されているように思えるのだ。

ここに紹介したのはこの歌集の魅力のほんの一部にすぎない。最後に数首引用してこの評を終える。

幸せを買つてしまつた気になつて汗ばむ胸で折る薔薇の束

「泣き腫らす眼でにらんでもスギ花粉飛ぶのはぼくのせゐではないな。」

死へ向かふふりして出でぬゆふぐれに飛ぶ雪虫を身にまとはせて

2014年1月17日金曜日

一角

土岐友浩氏に彼の参加する同人誌『一角』を頂いた。この同人誌、どの作者の作品も個性的で興味深いのだが、私の立場からすると、特に土岐友浩の連作「blue blood」が重要であるように思う。この連作の特徴として、まず次の作品を見て欲しい。

自転車はさびしい場所に停められるたとえばテトラポッドの陰に

まず一見して、主題が地味である。「自転車はさびしい場所に停められる」。なるほど、共感できないことはないが、だからなんだというのだ。どうでもいい、極めてどうでもいい――はずなのに妙に心惹かれるのは、その「場所」が「たとえばテトラポッドの陰」と具体的に示されていることによる。ここまで読めば、作者はテトラポッドの陰に停めてある自転車を見て、そこが「さびしい場所」だと気づいたのだなと、この歌は気づきの歌、発見の歌なのだなと合点がゆく。そして、その気づきの提示が、「自転車はさびしい場所に停められる」と、まるで普遍的命題を示すかのように行われているところに「ずれ」があることにも気づくわけだ。つまり「テトラポッドの陰」というなんだか面白いはずの(しかしそれだけでは十分に面白くない)場所への「気づき」があって、それが「ずらして」提示されることによって本来の面白さが引き出されているわけであるが、この「気づき」と「ずらし」はこの連作に於る重要なポイントだと思う。

靴ひものようななにかが干してある商店街を吹き抜ける風

「靴ひものようななにか干してある」という気づき、これもまたささやかな気づきではあるが、冒頭に「靴ひものようななにか」が提示されると、それがどのようなものなのか妙に気になる。気になるのだが、「商店街を吹き抜ける風」が、そんなものはまるでなかったかのように爽やかに吹き流してしまう。風が読者の焦点をずらしてしまうのだ。靴ひものようななにかとは一体なんだったのだろうか。

苔に苔がしているのか狛犬がますますでこぼこになっている

この歌も面白い。狛犬に苔が重なるように生えているという着眼点自体はこれまたかなり渋いのであるが、その点を「いるのか」と軽い疑問形で提示し、「ますますでこぼこになっている」と、くだけた言葉で表現している。渋い事象に渋い言葉をぶつけるのではなく、主題とは「ずれた」軽い言葉でさらっと流してゆく(それでいて「して」だけは「生えて」とは書かれないのだ。この辺りの絶妙なバランス感覚も素晴らしい)。この妙に軽く、それでいて洗練された文体というのも、土岐の短歌の大きな特徴である。

なんとかという大統領を勝手に応援するなんとかという町に来ました

本棚の上に鏡を立てかけてあり合わせからはじまる暮らし

新しい町、新しい生活ではあるが、文体にも内容にも気負いはない。

ゆっくりと時間をかけてぶつかって大きく立ち上がる波しぶき

発砲スチロールの箱をしずかにかたむけて魚屋が水を捨てるゆうぐれ

水の描写はまるで眼前に迫るようであるが、彼の気負わない文体もまた、外の事象に対して水のように柔らかなのかも知れない。

2013年6月17日月曜日

no.6

めしひたる母の眼裏に沁みてゐし明治の雪また二・二六の雪

齋藤史『渉りかゆかむ』

二・二六事件の日、東京には雪が降っていた。すでに光を失った「母の眼裏」に「明治の雪また」その「二・二六の雪」が「沁みてゐ」た、という。

「昭和の雪また二・二六の雪」といえば両者は包含関係にあるが(二・二六は1936(昭和11)年2月26日)、「明治」であるから、45年の明治と、たった一日の「二・二六」が並置されていることになる。

この長短2つの劇的な時間的枠組の中で起きたすべてのことが「雪」の視覚的イメージに集約されているのである。そしてその雪は「盲ひたる母の眼裏」に収斂する。読者の視点から云えば、母の眼裏を起点として、この二重の圧縮を解凍することになるわけだ(母の眼裏→明治の雪また二・二六の雪→雪の象徴するもの)。

しかし、ここではまだ回収されていない事柄がある。二重の圧縮を伴う詩的負荷を「母の眼裏」に求める「作者=子」の姿だ。果たして母の眼はこの負荷に耐え得るのであろうか、と思いを巡らせたとき、この母子の――表現者と被表現者の――或種の暴力を伴った関係性が見えて来るのである。この関係性が立ち上がるとき、「雪」に込められる、「明治」と「二・二六」に起きた諸々の事象の根底にも、人々の関係性があったことに思い到るのだ。

時代に雪は降り、人の関係性は、その下で様々なドラマを創り出して来た。それは時として、暴力を伴うものであった。

2013年6月12日水曜日

no.5

黙すことながきゆふさり息とめて李の淡き谷に歯を立つ

小原奈実「にへ」(『率 通巻2号』)

ある言葉を発することのできない「ゆふさり」に、「息」までも「とめて李の淡き谷に歯を立」てる。

「李」の描写として、「淡き谷」という局所的なフォルムが抜き出される。適切な抽象は、時として精巧な模写にさえ表れないものを表す。ここで李の生命感はその淡き谷に局地的に凝縮しているのである。作者はそこに「歯を立」てた。ここで、李の生命が淡き谷に凝縮しているのとまったく同じように、作者の生命もまたその「歯」に局地的に凝縮しているのである。そして歯が立てられることによって2つの生命は極めて微細な接点で交わることになる。夕暮れ時の異質な生命の微細な交錯を前にして、言葉も、呼吸でさえも不要なもののように思えてくるのだ。

no.4

憎むにせよ秋では駄目だ 遠景の見てごらん木々があんなに燃えて

大森静佳『てのひらを燃やす』

最近発売された大森静佳の第一歌集『てのひらを燃やす』(角川書店)からの一首。

憎むにせよ秋では駄目だ――語りかけるように、鮮烈なフレーズが冒頭に展開される。一字空けの後も語りかけるような口調は継続し――見てごらん――「遠景」へと視点が促される。そこには「木々があんなに燃えて」いる。

「秋」であるから、「木々があんなに燃えて」のベースには紅葉の景がある。ところが、ここでは単純な紅葉の景の比喩を大きく離れて、ほとんど本当に木々が燃えているように感じられるのだ。「ほとんど本当に」という言い回しは、紅葉の景がベースにあることによって、山火事のように眼の前で実際に木々が燃えているようなイメージまでは想起されず、しかしただの紅葉の比喩というわけでもない、本当に、確かに燃えている木々のイメージが感じられるというニュアンスを表す。純粋に燃える木々の煌々たるありさまに、目の眩むような美しさを覚える。

そして、単純な比喩を越えたこのようなイメージを引き連れてきたのは、冒頭の「憎む」である。憎しみの現実的な発露は確かに否定された――秋では駄目だ――わけであるが、心裏に留まる憎しみは眼前の景を昇華させた。

この「遠景」は、対人関係に於る憎しみの発露の現実的な様相から離れた、本来の憎しみの姿なのではないだろうか。もしそうだとすれば、憎しみがこんなにも美しいことを、私は知らなかった。

2013年6月11日火曜日

no.3

どつぷりと紅茶にレモン片 人に言へざる夢を見てしまひたり

安田百合絵「Trompe-l'œilトロンプルイユ」(『本郷短歌 創刊号』)

「どつぷりと紅茶にレモン片」という情景に「人に言へざる夢を見てしまひたり」という状況が対応したシンプルな構造の短歌である。人に言えない夢を見てしまったというのは、多くの人にとって経験がある共感性の高い事柄であろう。その事柄の手前にティーカップに挿み込まれたレモン片が提示されるわけだが、「どつぷりと」というのは、紅茶のレモン片の形容としてはやや量感が過剰なように思われる。この過剰さへの違和感が、「人に言へざる夢を見てしまひたり」の動揺と対応しているところに、この歌の抒情が立ち上がるのであろう。

と、散文的な解釈を示しただけではこの歌の魅力の半分ほども語れていないように感じるのは、恐らく気のせいではあるまい。この歌に触れて得られる感動の本質に、上述の散文的な解釈は辿り着くことが出来ない。韻文によってのみ可能な表現――或はその逆――は確かに存在するのであるが、この歌の場合は幸いなことに、その言語化がある程度可能なように思われるので、以下試みる。

この歌の韻文的な魅力の核には「紅茶にレモン片 人に」がある。第3句に「片」がはみ出し、一字空けて「人に」につながるスタイルが一見してユニークだ。この「片」のはみ出しの一次的な機能としては、「どつぷりと」のあり余る量感への貢献があるが、「片」はまた、この歌の「切れ」を構成しているという点においても重要である。上述したように「情景+状況」という構造上の切れは「片」と「人に」の間にある。そしてこの歌の「片 人に」が興味深いのは、通常の意味上の切れよりも強固な切れをこの場所にもたらしていることだ。

まず、一字空けには「切れ」を視覚的に明示する働きがあり、「片」と「人」が共に名詞であることもこの切れを強化する。また、「レモン+片」で「切り取られたレモン、レモンの切れ端」を表すように、「片」という語はその本質として切れている。このように、何重もの意味でこの部分は切れているわけであるが、それにも関わらず、「レモン片」が「人に言へざる夢」から離れて、どこか遠くへ行ってしまうというようなことはない。

それは、先述したように、この歌の解釈として、情景と状況が密接に対応していることによる部分が大きいが、それに加えて、「切れ」が第3句に存在していることにも注目したい。一般に歌人は第3句を無意識に歌の要として認識しているらしく、このような切れを第3句にもってくることはもちろんのこと、字余りさえも極度に嫌い、5音ぴったりでまとめてくるケースが極めて多いことが、以前個人的に試みた統計調査によって明らかとなっている(この調査の結果については後日発表したい)。このように緊密なまとまりを持つ第3句に強固な切れを置くことによって、「片 人に」は強固に切れていると同時に強固に結びついている。この激しい反発と激しい牽引とのせめぎ合いが、散文的解釈では説明しきれないこの歌の鮮烈なポエジーを生むのである。この点については、「いき」の構造を「媚態」の二元性に求めた九鬼周造の議論と関連付けても面白いかも知れない。

情景表現と心情表現を並置させる手法は現代短歌ではありふれたものであるが、この歌は、その切れ目に通常の意味的な対応を越えたつながりと反発を有している点で、類似する構造を持つその他幾千の現代短歌とは異なる。まだまだ短歌の表現手法には開拓の余地があることを予期させる点でも、この歌への興味は尽きない。

no.2

枯れたからもう捨てたけど魔王つて名前をつけてゐた花だつた

藪内亮輔「魔王」(『京大短歌 通巻19号』)

枯れたからもう捨てたけど――シンプルな理由によって「花」は捨てられた。その花には「魔王」という名前がつけられていた。

魔王のような外観をもつ花の名を挙げることは恐らくこの歌の解釈にとって意味を持たないだろう。「魔王のやうな花だつた」のではなく、「魔王つて名前をつけてゐた花だつた」のである。

名付け――他者への一方的なアイデンティティの付与――とは、対象への倒錯した自己意識の投影である。実際に存在した花は既に捨てられ、今はただ回想の中に魔王という名の花が偏在するのみだ。この偏在性を、人は愛と呼ぶのかも知れない。