笹谷潤子の第二歌集『夢宮』(2013、砂子屋書房)を読んだ。彼女は「あとがき」で
わたしは前歌集『海ひめ山ひめ』のあとがきで歌とは世界を測るものさしと書いたが、今は補助線のようなものではないかと感じている。自分の中だけにある情景を証明するために引く架空の線。そう考えると今のわたしの気持ちにしっくりなじむ。
と述べているが、まさに彼女の「中だけにある情景」として、この歌集には様々な世界が描き出されているように思う。例えば次の二首を見て欲しい。
朝顔とそを呼ぶごとく今朝ひらく新たなわれをまさに名づけよ
寒ければいよいよ甘し大根のやうなわれなり冬を愛する
作者の有様を動植物に喩える表現は珍しいものではないが、この二首の場合単純な比喩とするにはどうも「朝顔」と「大根」の存在感が強すぎるように思う。「今朝ひらく」、「寒ければいよいよ甘し」は植物の描写であって、人間に遣うそれではない。
この描写によって、開花する朝顔と、冬の大根の様子がヴィヴィッドに想い起こされるわけだが、それを「今朝ひらく新たなわれ」、「大根のやうなわれなり」というようにダイレクトに「われ」の描写につなげてしまうことには驚かされる。これは言い換えれば「朝顔」と「大根」に植物としての明確な他者性を認めつつ、「われ」と同格の存在として重ね合せている、更に云えば「われ」そのものとして彼らを扱っているということで、この謙虚さと強引さの自然な同居と云うか、外への観察と内への洞察が同時に行われているような感覚は笹谷のユニークな世界観の一端を表しているように思う。他にも彼女の世界観の面白さを味わえる作品を挙げてみよう。
帽子屋にあたまのかたち見込まれてつぎつぎかぶる春の日永を
この春は白き服着む今ここのすべてを映す旗となるため
帽子屋にあたまのかたち見込まれて、この春は白き服着む――ささやかな生活の一場面から歌は始まる。これから身につけるであろう帽子へ、白い服へと焦点が集まり、期待に胸が膨らむようであるが、いつの間にか帽子は「春の日永」へ、「白き服」は「すべてを映す旗」へと変身する。人物のシルエットに風景が映し込まれるルネ・マグリットの作品(下図『王様の美術館』(1966、横浜美術館蔵))を引き合いに出したくなるような空間把握であるが、笹谷の作品において注目すべきは「帽子」や「白き服」が作者――生活する私――に触れることによって初めて世界へ開かれた存在へと変化したことであろう。
このように「われ」と外の事象(世界)が接触することによって彼女の作品は様々な動きを見せるが、この歌集に於る「われ」と世界との距離は一定ではない。
草の城立ち上がりまた吹きくづれ自転車を止めガムを噛む間の
車窓より燃え立つ欅一樹見ゆまた水平に
映画の登場人物のように世界の中に存在する「われ」。
生きかはり死にかはりしてとことはにすれ違ふのみ青火花立て
この世にはマニキュアの爪灯しおく夢の花野に遊べる時も
世界そのものが「われ」。或は「われ」の精神が編み出す世界。
水面に夕空流れいちめんのももいろの中飛ぶもの泳ぐもの
からつぽに風の入りては出てゆきぬガラスの器ならぶギャラリー
「われ」の捉える世界。或は世界から消えた「われ」。
おそらくこの歌集には明確に定められたコンセプトのようなものはないのだろう。「架空の線」を自由に引いて遊ぶ、その楽しさがこちらにまで伝わってくるようだ。しかしその一方で、「われ」と世界との境界が曖昧であること、そして「われ」との関係性の中で描き出される世界の様相が実に鮮やかで美しいことには、笹谷の個性が確かに主張されているように思えるのだ。
ここに紹介したのはこの歌集の魅力のほんの一部にすぎない。最後に数首引用してこの評を終える。
幸せを買つてしまつた気になつて汗ばむ胸で折る薔薇の束
「泣き腫らす眼でにらんでもスギ花粉飛ぶのはぼくのせゐではないな。」
死へ向かふふりして出でぬゆふぐれに飛ぶ雪虫を身にまとはせて
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