明日香へゆく。曇っていたのは残念だが、春は仕上がりつつある。
菜の花に蔓からませて何らかのマメ科植物がのびてゐる
落ちてゐる椿ついてゐるつばき鮮やかな色といふほどもなく
散りかかる椿やまぶき咲き初むる於美阿志神社の境内の春
明転するひかりの海にくるまれてなのはなの色は視認できない
『早稲田短歌42号』(早稲田短歌会)を読んだ。
今回の早稲田短歌についてちょっと気になったのは、何やら斬新で挑戦的な意味内容を誇る一方で、短歌の韻律については妙に保守的な印象を受ける作品が多かったことだ。この奇妙なアンバランス感、言葉の意味としての作者の情念が突出して、文体が置き去りにされているような感覚が、私の中に大変な違和を生み出してしまっている。
そんな中、中盤に3つ連続している山中千瀬の連作(「ロード・ムービー」、「グランド・フィナーレ」、「クレジット」)に見られる作品群が、際立った存在感を放っているように思えた。特に面白いと思った3首を引用したい。
サーカスは黙って行ってしまった。置いていかれた町で暮らした
空想のなかに何度も水没の故郷を きれい。きれい。と言った
あまつぶが町をあざやかにしていく(見てなよ)生まれたいのだね町
一見して、虚構世界の鮮やかな描写が印象的であるが、それと同時に、言葉が動いていることに注目したい。動いている、というのは、例えば二首目の「水没の故郷を きれい。きれい。と言った」の部分であるが、ここでは、「故郷を」と「きれい」の間に一字空けを挿入して、2つの「きれい」を句点で区切っていくことによって韻律が断続的に加速し、更に2つの「きれい。」が第四句と第五句にまたがることによってそのテンションが減衰しない。と、これはやや個人的な解釈かも知れないが、いずれにせよ、三首目の「(見てなよ)」が印象的であるように、繊細に配慮された表記と、巧みな句跨り的構造がもたらす、「普通の短歌的韻律」からちょっと冒険したような、独創的過ぎない独創的な韻律が、どこか日常の影が感じられる虚構世界の描写と重なって、作品の世界へと読者が踏み込むことを容易にしていると云えるだろう。
最近、小説界隈からの短歌批判をいくつか読んで、短歌の面白さとはなんだろうかと考えていたのだが、それは何も特別なことではなくて、短歌の定義にその答えはあるのではないかと思う。つまり、「短歌は短くて、独自の韻律を持つ」ここに尽きるのではないであろうか。意味や内容の充実を主に楽しみたいのなら、短歌よりも優れている表現形式はいくらでもある。それでも、短歌を読みたい。面白い短歌を読みたい。そういう意思で私は短歌を読み、短歌について書いているわけであるが、そんなときに、山中の作品のような、短歌の短歌的な部分に十分な工夫が感じられる作品を読むと、やっぱり短歌って楽しいよね。面白いよね。っていうことを再確認できて、またその先を見据えることができる。私は短歌の将来を悲観していない。
去年の11月に詠んだ短歌をまとめておく。14首。御感想を頂けると嬉しい。
しじみ蝶
収穫を終へし田の面に組まれゐる 藁の構成 我の構成
透明な秋のひかりにくれなゐのほほづきひとつふたつみつよつ
人びとのあゆむ速さに滲みゆく銀杏並木のあをいろきいろ
焦げ茶色の陸橋に汽車はあらはれずあとすこしだけ此処にゐる 時間
とびとびにとぶ雲を見るあきかぜのはてにはなにもない空もあり
夏には花でうめつくされたこの場所にいまふたひらひらく秋の薔薇みゆ
百合の木の量感あはく色づいた茶色い葉から順に落ちてゆく
くすりゆびで引つ掻いたやうなきづあとを(そこにはゐない)雲がのこした
すこしだけさみしくなつた銀杏の葉の空白にまた冬が来りぬ
ポケツトから柿の実ひとつ取りだして
赤さびた柱に組まれし廃屋に 吹きぬくる風 生えのぶる蔦
冬薔薇の棘の硬さに食ひ込んだ人差し指に血は出て来ない
木の椅子は秋のひかりに温かく降りやまぬ葉の重さをおもふ
しじみ蝶のからまりあつて昇りゆく 太陽にかさなつてみえない
短歌結社誌『未来』の2月号を読んだ。今月も秀歌選をつくってしまおうと思う。『未来』2013年2月号に掲載されているすべての短歌より9首選んだ。掲載順に記す。
1 いずれあなたの
2 風下に咲く大叔母の簪をかろうじてこの世からながめる
3
4 濃紺の守衛の胸に伏せられて書物は冬に似たものになる
5 白湯だけが親しい夜の入り口でいいよあなたの六腑になろう
6 (ゆるすとかゆるさないとか)恥ずかしい釜揚げうどんぞるぞるすする
7 啜ったり舐めたりするひと ひ って言ういのちだ なんとしてもかわいがる
8 泣くまいとしている人にひとつずつ滝を差し入れて暮らしたい
9 (いきものがひくく構えていることのかけがえのなさ)咬みにきなさい
村上きわみの「戸閾を踏む」(「2012年度未来年間賞」として、一年の投稿歌の中から秋山律子が選んだ作品集)の読み応えが尋常ではない。
まずめまぐるし動く作中主体の視点がこの連作の醍醐味のひとつであろう。2では現世と来世の境界に存在している作中主体が、6では「釜揚げうどん」を「ぞるぞるすす」っていたりする。更には5では、「あなた」の身体に同化する意思――或は未来――が表明され、8、9ではやや超越的な視点が導入される。このように作中主体は通常の自我の枠組みを完全にはみだしてしまっているが、「はみだしている」のはそれだけではない。
驚くべき短歌表現の柔軟性を見てほしい。句跨りや、一字空け、句読点、パーレンなどの表記的な技術に支えられた、言葉の緩急によって形成される情感の脈動が、描写を越えて読者の心に叩きつけられる。特に印象深いのは、6の「ぞるぞる」や7の「ひ」のような音の扱いである。「ぞるぞる」のような擬音語は、短歌に限らずあらゆる言語世界で無自覚かつ大量に再生産され、その過程で語が本来有していたであろうテンションの一部を失っているように思える。「うどん」を「すする」シーンに対してメジャーな擬音語であると思われる「ずるずる」を使用したのでは十分な効果が得られなかったことであろう。また、7の「ひ」というひらがな一字で表された声を「いのち」と等価なものとして提示する手法も興味深い。このような音――それ自体は短歌の構想的にはほとんど無内容ともいえる表現――が、前後の言葉との有機的な関連に於て、選択され得るあらゆる理知的な描写を凌駕する可能性があることが彼女の作品に示されていることは、現代短歌の表現を考える上で示唆深いものがあるように思う。
短歌結社誌『未来』の1月号を読んだ。今月も秀歌選をつくってしまおうと思う。『未来』2013年1月号に掲載されているすべての短歌より5首選んだ。掲載順に記す。
1 傷がつきにくい加工をほどこされ傷つきにくい眼鏡のレンズ 柳澤美晴
2 刻々と老いる体であそびたい(まだあそびたい)カステラを焼く 村上きわみ
3 こっくりとした色へ髪を塗りかえて今日こそ秋をはじめなければ 中込有美
4 純白の羽根の名残のように咲く睡蓮を指差してあなたは 中込有美
5 完璧なカラメルなのよ微笑んでひと息に割る銀のスプーン 中込有美
1――最後まで読んでも「傷がつきにくい」というそれだけなのであるが。
2――(まだあそびたい)。
3――「こっくり」は「色・味などが、落ち着いて深みのあるさま」(大辞林 第三版)を表すらしい。いかにも秋らしい秋――「定型」としての秋――への焦燥。
4――輝かしいまでの美しさを放つ前半の描写がむすびの「あなたは」の言いさしに収斂する。
5――「カラメル」と「銀のスプーン」の光沢の呼応と破壊。
短歌同人誌『率』の2号を読んだ。『率』は、力のある若い歌人が集う同人誌で、ぺらぺらの薄い冊子であるが、読み応えは十分であった。特に、小原奈実の連作「
まず、小原奈実の「
黙すことながきゆふさり息とめて李の淡き谷に歯を立つ
肉体のわれを欲るきみ切りわけし桃に褐変の時が過ぎゆく
この2首が印象に残った。2首とも二句切れのいわゆる万葉調(五七調)で、第二句までが心情的な描写、第三句からが実景的な描写という構成になっている。心情的な部分と実景的な部分を分ける手法は現代短歌に於て「王道」とでも呼ぶべき、ある種定番ともなっているもので、作者の世代や志向を越えて広く用いられている。それにも関わらず、私はこの2首にある種の「驚き」と「新しさ」を感じずにはいられない。
心情的な描写からするすると作品世界に入ってゆくわけだが、それぞれ第三句あたりまで差しかかったところで驚くべき表現に出くわすことになる――「息とめて李の淡き谷に歯を立つ」、「切りわけし桃に褐変の時が過ぎゆく」――突如立体的に浮上する「李」と「桃」の存在感にはっと息を呑む思いがする。
これらの表現に傑出している部分をより詳細に考察してみたい。まず一首目では、「淡き谷」という「李」の一側面を端的に切り取り、そこに局所的に「歯を立」てる。二首目では、桃が「褐変」してゆく様を「時が過ぎゆく」という大きな時間の幅で捉えてゆく。「李」と「桃」という存在の「淡き谷」、「褐変」という視覚的、外観的にユニークな特徴が示され、そこに外観以外の動きが加えられることで、対象が言葉の上に立体的に立ち上がって来るというわけだ。このような描写は、作者の「李」や「桃」のような小さな「もの」――あるいは「生命」――に対する確かな関心と、それに基づく観察の成果を表しているように思う。そして小原奈実の「新しさ」というのは――この立体的な情景描写自体が既に革新的であることに加えて――このような表現が、いわゆる「客観写生」のような無味乾燥な文脈に置かれるのではなく、情感豊かな文脈の中に、
平岡直子の「装飾品」には、
ピアニストの腕クロスする 天国のことを見てきたように話して
完璧な猫に会うのが怖いのも牛乳を買いに行けば治るよ
これだから秋は、ときみは口ずさみ怪獣みたいな夕焼けだった
こんな歌があった。「ピアニストの腕クロスする」、「完璧な猫」、「怪獣みたいな夕焼け」――恐るべき強度を持ったフレーズが突き刺さるように響く。そしてそこに「牛乳を買いに行けば治るよ」とか、「これだから秋は」というように、語りかけるような優しさで、不可解な内容が示唆される。ほとんどわからないぎりぎりのところで、わかる、といった印象であろうか。言葉の強度は感性の壁を越えるのかもしれない。