この道しかない春の雪ふる
種田山頭火『草木塔』
成長するとは、自らの可能性の無さを認識することなのだろうか。それとも、手に届く幸せを噛み締めるということだろうか。大人は子供に夢を語らせる。その夢が叶わないことを知りながら。選べるつもりでいた人生の岐路が、実は自らの意思とは関わらず定められていた一本の「道」である.ことを知るとき、そこに降る「雪」は、希望のようにも、悲しみのようにも見えるだろう。
去年の8月、11月、今年の3月、4月、5月、6月、8月、9月に詠んだ短歌をまとめておく。既にこのブログに公開した歌が6首、そうでないものが29首で、計35首。御感想を頂けると嬉しい。
季節
青空に乾いた音がするときにちひさく咲いたそのむらさきは
しらじらと咲けるひるがほしらじらと
夏芝の痛みを
その虫の翅は黒かつた なにものにも(夕陽にも)染まらない色だつた
日本海の水平線のある場所で「ああ、鳥が」なつかしいひとのこゑ
目をつぶることを知らない太陽が木々の葉を黄色く染めてゐた
銀杏のかたちを知らないてのひらに球体をただころがしてゐた
もみぢする葉つぱ雨に濡れる葉つぱわたしの足に踏まれる葉つぱ
しじみ蝶は枯葉にまどふ栗色の翅をしてすこしも動かない
朽ちはてた椿のかをり確かめて春の陽のさすいただきを去る
さくらばなふりしきる道にのこされたあたらしい葉の色を見てゐる
ひとところ光さしこみくすのきの葉がゆつくりと落ちてくる迄
木々の葉の影こまやかに映し込み疎水に春の声が聞こえる
綿毛の塔に風やはらかく吹き込んで崩れ去るにはまだ早いから
かなへびの舌ちろちろと春の陽にややあたたかい敷石をゆく
傾いた太陽の色に山吹の花々のかさなつてゆくころ
くすのきの葉がつぎつぎと落ちてきて枯れつくすほどのことではなくて
芥子の花ひとすぢ伸びて吹きわたる風つよければ折れさうなほど
新緑の深まるときに蝶はたかくどこまでたかく飛べるのだらう
あげはてふの翅おだやかに振動し何かが始まらうとしてゐる
しじみ蝶は絡みあひ離れあひながら草々のさきにふれてはなれて
五月雨にささやかな影落としつつあなたとあなたの話がしたい
目をひらくことで世界を把握して ゐた あなたが 目を閉ぢるとき
手のひらのあたたかさよりあたたかいそんな幸せなのかもしれない
紋白蝶あのしろいいろゆれてゐる路上にはぐれたあのしろいいろ
揚羽蝶たかくとび見えなくなるまでの時間に雨が降りだしてゐる
紫陽花がすこし朽ちはじめるやうなさういふ湿度を感じてゐた
あなたの服がゆつくりと波打つまでの時間を風が吹きぬけてゆく
色褪せた花びらがなほあぢさゐの花のかたちを彩つてゐた
夏空に湧きあがる雲をいつからか写真にしようと思はなくなつた
レターセットは切らしたままであたらしいあなたへの手紙を書きだした
あげはてふはまだゆれてゐるあたらしい季節のおとづれを知らぬまま
あたらしい季節の花が咲きだしてあのころの蝶はまだゆれてゐる
すっかり春だ。道端にたんぽぽがたくさん咲いている場所があって、綿毛のついている茎と花のついている茎が同時に存在しているのが面白く感じられたのだけれど、よく見るとやや違和感があって、というのも、どれも綿毛が高い位置についていて花は低い位置についている。花のついていた同じ茎に綿毛がついているはずだから、これはどういうことだろうと気になったのだけれど、軽く調べたところでは、タンポポは花がしぼんでから綿毛をつけるまでの間に茎が伸びるとか。どういう機構で起きていることなのか詳しい人に聞いてみたいと思うのだけれど、植物に詳しい知り合いがいない。
木々の葉の影こまやかに映し込み疎水に春の声が聞こえる
綿毛の塔に風やはらかく吹き込んで崩れ去るにはまだ早いから
かなへびの舌ちろちろと春の陽にややあたたかい敷石をゆく
傾いた太陽の色に山吹の花々のかさなつてゆくころ
ゆびさきを針でつつけばさらさらの血がうつくしくみとれてしまう
岸原さや『声、あるいは音のような』
血がうつくしくみとれてしまう――下の句に主題が率直に示される。たっぷりと14音を使って、素直に。しかしこれだけでは詩は成り立たない。ディテールは上の句に示される。
小さい「ゆびさき」をさらに微小な「針」の先でつついて出来上がったごく小さな起点、その起点から「血」が流れ出す。そしてその血は、粘性のない、「さらさらの血」だ。極めて細い血の筋がゆびに淀みなく流れるさまが想起され、このとき、作品世界内の作者の意識と読者の意識は奇跡的に一致する。私はその血を見て、美しさに、みとれてしまう。
山崎聡子の第一歌集『手のひらの花火』(2013、短歌研究社)を読んだ。この歌集は作者の「短歌をはじめた十九歳のときから最近つくったものまで」の作品を集めたもので、歌集前半の歌には定型にきっちりあてはめたようなややぎこちない印象を受けるものが多いのに対して、歌集中盤以降徐々に独自の文体を獲得していくような過程が確認される点から、編年体に近い形式で編まれたものだと思う。この評では、文体に十分な成熟が見られる歌集終盤の歌のみを扱う。
息が夜に溶けだしそうで手で覆う映画を生きてそして死にたい
この歌集には映画の印象的なシーンを切り抜いたような作品が多い。生活感を漂わせつつもどこかふわふわとしたフィクショナルな空気感があるというべきか。
ともに住むこわさを胸にのみこんでかすれた声で歌うバースデー
どれほどの渇望かもうわからない君とゆっくりゆくアーケード
ネオン目に映してわらいこの夜の弱さのことを語り合いたい
かすれた声で歌うバースデー、君とゆっくりゆくアーケード、この夜の弱さのことを語り合いたい――この歌集を読んでいて、こういった言い回しに最も強い魅力を感じる。なんだろう。どう云うべきだろうか。心が温かくなるようなどきどきする感じ、それでいてなんだか安心できるような感じ。ゆったりとした文体と作品内での時間の流れが調和するようで心地良い。
光をモティーフにした作品が多いのも印象的だ。ここではそのうちの4首を個別に見てみたい。
屈折ののちの明るい日々のなか夜風を裸眼の両目におくる
光の「屈折」と心理的「屈折」が重ね合され、そこからの開放が描かれる。眼鏡やコンタクトによる過剰な「屈折」を経ない「裸眼」ではあるが、そこにあてられるのは光ではなく「夜」の「風」であることに注目したい。
暗転とそして明転 くりかえしくりかえし朝と夜を迎える
日々の生活が光の明滅に置き換えられる。前半は暗転→明転、後半は朝(明転)→夜(暗転)と、順番が入れ替えられることによって、光と闇の――朝と夜の――転換はほとんどひとつに重なるかのように加速して感じられる。
冷凍庫のひかる氷よわたしたち言葉もこうして覚えていった
記憶の源泉としての光。
目を閉じて音だけを聞く映画にも光はあってそれを見ている
光は見えていないはずである。しかし「光はあってそれを見ている」。4首に共通して「光」は視覚の要因としての「光」に留まらず、それは記憶であったり、感情であったり、あるいは生活そのものであったりする。
山崎は「あとがきにかえて――記憶を感光させること――」に於て、自らの歌作りを「記憶や感情を短歌という形に感光させる」と表現している。私たちが歌集から直接得られる「光」は文字であり、言葉なわけだけれど、そこに込められている諸々の「光」も見えるような、光を感じられる歌集『手のひらの花火』、不思議な魅力を放つ作品だと思う。
ここに紹介したのはこの歌集の魅力のほんの一部にすぎない。最後に数首引用してこの評を終える。
海と川が交わる町の匂いなど(晴雨)からだに知らしめてゆく
電車って燃えつきながら走るから見送るだけで今日はいいんだ
へび花火ひとつを君の手のひらに終わりを知っている顔で置く
大森静佳の第一歌集『てのひらを燃やす』(2013、角川書店)を読んだ。この歌集は編年体でI~III章に分けられていて、I章は第56回角川短歌賞を授賞した連作「硝子の駒」から始まっている。そこにある印象的な歌を引いてみよう。
冬の駅ひとりになれば耳の奥に硝子の駒を置く場所がある
とどまっていたかっただけ風の日の君の視界に身じろぎもせず
美しく、はかなくも気品があり、それでいて脳裏に残る強さがある。
歌集前半は、このようにどこかはかない雰囲気を醸しつつも、文体は均整がとれていて、意味内容もわりとすんなり納得できるような作品が多いのであるが、II章の途中から、次のような毛色の異なる作品が現れ始めることになる。
つばさすらないのに人は あまつさえ君は夕暮れに声低くする
憎むにせよ秋では駄目だ 遠景の見てごらん木々があんなに燃えて
え?というのが第一印象だ。つばさすらないのに人は、憎むにせよ秋では駄目だ――突然呼びかけるように放たれた強い言葉に戸惑いを覚える。この歌集の最初から大森の言葉は強かった。しかしこの突き刺さるような強さはなんだ。異常に強いと云うべきか。
そして一字空けを挟んだ後半部分「あまつさえ……」、「遠景の……」の前半部分との論理的整合性に、I章に見られるような明解さがないことにも注目したい。この辺りから大森は、読者にとっての分かり易さをある程度無視してでも、表現すべきものがあることに気づいたのではないだろうか。この傾向はIII章でさらに強くなり、例えば
雲のことあなたのことも空のこと 振り切ることのいつでも寒い
という歌がある。ちょっと想像しただけでいろいろな解釈が立てられそうな不確定性に満ちた歌だけれど、最後の「寒い」。これだけは随分はっきりとイメージできる。寒い。私にも確かに寒く感じられるのだ。具体的に説明しろと云われたら困るのだけれど、寒い。寒いのだ。
大森はある時期に、情景を読者に客観的に説明するための言葉を用いることを辞め、より直観的な感情との対応で生まれた言葉を用いるようになり、それは云い換えれば自我そのものとしての言葉、更には自我に先行する何かとしての言葉なのだと思う。全体の描写の中で単語やフレーズが際立って強く感じられる歌があるのはそのためではないだろうか。
どうにかして抱きしめたいような言葉 さようなら、と笹舟を流すように言う
声は舟 しかしいつかは沈めねばならぬから言葉ひたひた乗せる
言葉によって説明された作者の内面の迫力、ではなく、作者の内面との対応で生まれた言葉、言葉そのものの迫力――そしてその言葉が流し込まれる韻律にも注目すべきものがある。
売ることも買うこともできる快楽、と思いつつはぷはぷ牛乳を注ぐ
まばたきのたびにあなたを遠ざかり息浅き夏を髪しばりたり
大森は基本的に定型に忠実な歌人であるが、その韻律は感情の脈動に沿うように流れ、その昂ぶりに呼応するように時として字余り気味にふくらむ。
この歌集の中で、常人離れした大森の感性は一貫したものであるが、後半に進むにつれて言葉や韻律の使い方がより短歌という言語芸術の
ここに紹介したのはこの歌集の魅力のほんの一部にすぎない。最後に数首引用してこの評を終える。
後戻りするものだけがうつくしい枇杷の種ほど光る初夏
奪ってもせいぜい言葉 心臓のようなあかるいオカリナを抱く
こころなどではふれられぬよう赤蜻蛉は翅を手紙のごとく畳めり
生前という涼しき時間の奥にいてあなたの髪を乾かすあそび
参考文献
岩尾淳子「大森静佳 「てのひらを燃やす」」(2013、『眠らない島』)
笹谷潤子の第二歌集『夢宮』(2013、砂子屋書房)を読んだ。彼女は「あとがき」で
わたしは前歌集『海ひめ山ひめ』のあとがきで歌とは世界を測るものさしと書いたが、今は補助線のようなものではないかと感じている。自分の中だけにある情景を証明するために引く架空の線。そう考えると今のわたしの気持ちにしっくりなじむ。
と述べているが、まさに彼女の「中だけにある情景」として、この歌集には様々な世界が描き出されているように思う。例えば次の二首を見て欲しい。
朝顔とそを呼ぶごとく今朝ひらく新たなわれをまさに名づけよ
寒ければいよいよ甘し大根のやうなわれなり冬を愛する
作者の有様を動植物に喩える表現は珍しいものではないが、この二首の場合単純な比喩とするにはどうも「朝顔」と「大根」の存在感が強すぎるように思う。「今朝ひらく」、「寒ければいよいよ甘し」は植物の描写であって、人間に遣うそれではない。
この描写によって、開花する朝顔と、冬の大根の様子がヴィヴィッドに想い起こされるわけだが、それを「今朝ひらく新たなわれ」、「大根のやうなわれなり」というようにダイレクトに「われ」の描写につなげてしまうことには驚かされる。これは言い換えれば「朝顔」と「大根」に植物としての明確な他者性を認めつつ、「われ」と同格の存在として重ね合せている、更に云えば「われ」そのものとして彼らを扱っているということで、この謙虚さと強引さの自然な同居と云うか、外への観察と内への洞察が同時に行われているような感覚は笹谷のユニークな世界観の一端を表しているように思う。他にも彼女の世界観の面白さを味わえる作品を挙げてみよう。
帽子屋にあたまのかたち見込まれてつぎつぎかぶる春の日永を
この春は白き服着む今ここのすべてを映す旗となるため
帽子屋にあたまのかたち見込まれて、この春は白き服着む――ささやかな生活の一場面から歌は始まる。これから身につけるであろう帽子へ、白い服へと焦点が集まり、期待に胸が膨らむようであるが、いつの間にか帽子は「春の日永」へ、「白き服」は「すべてを映す旗」へと変身する。人物のシルエットに風景が映し込まれるルネ・マグリットの作品(下図『王様の美術館』(1966、横浜美術館蔵))を引き合いに出したくなるような空間把握であるが、笹谷の作品において注目すべきは「帽子」や「白き服」が作者――生活する私――に触れることによって初めて世界へ開かれた存在へと変化したことであろう。
このように「われ」と外の事象(世界)が接触することによって彼女の作品は様々な動きを見せるが、この歌集に於る「われ」と世界との距離は一定ではない。
草の城立ち上がりまた吹きくづれ自転車を止めガムを噛む間の
車窓より燃え立つ欅一樹見ゆまた水平に
映画の登場人物のように世界の中に存在する「われ」。
生きかはり死にかはりしてとことはにすれ違ふのみ青火花立て
この世にはマニキュアの爪灯しおく夢の花野に遊べる時も
世界そのものが「われ」。或は「われ」の精神が編み出す世界。
水面に夕空流れいちめんのももいろの中飛ぶもの泳ぐもの
からつぽに風の入りては出てゆきぬガラスの器ならぶギャラリー
「われ」の捉える世界。或は世界から消えた「われ」。
おそらくこの歌集には明確に定められたコンセプトのようなものはないのだろう。「架空の線」を自由に引いて遊ぶ、その楽しさがこちらにまで伝わってくるようだ。しかしその一方で、「われ」と世界との境界が曖昧であること、そして「われ」との関係性の中で描き出される世界の様相が実に鮮やかで美しいことには、笹谷の個性が確かに主張されているように思えるのだ。
ここに紹介したのはこの歌集の魅力のほんの一部にすぎない。最後に数首引用してこの評を終える。
幸せを買つてしまつた気になつて汗ばむ胸で折る薔薇の束
「泣き腫らす眼でにらんでもスギ花粉飛ぶのはぼくのせゐではないな。」
死へ向かふふりして出でぬゆふぐれに飛ぶ雪虫を身にまとはせて
土岐友浩氏に彼の参加する同人誌『一角』を頂いた。この同人誌、どの作者の作品も個性的で興味深いのだが、私の立場からすると、特に土岐友浩の連作「blue blood」が重要であるように思う。この連作の特徴として、まず次の作品を見て欲しい。
自転車はさびしい場所に停められるたとえばテトラポッドの陰に
まず一見して、主題が地味である。「自転車はさびしい場所に停められる」。なるほど、共感できないことはないが、だからなんだというのだ。どうでもいい、極めてどうでもいい――はずなのに妙に心惹かれるのは、その「場所」が「たとえばテトラポッドの陰」と具体的に示されていることによる。ここまで読めば、作者はテトラポッドの陰に停めてある自転車を見て、そこが「さびしい場所」だと気づいたのだなと、この歌は気づきの歌、発見の歌なのだなと合点がゆく。そして、その気づきの提示が、「自転車はさびしい場所に停められる」と、まるで普遍的命題を示すかのように行われているところに「ずれ」があることにも気づくわけだ。つまり「テトラポッドの陰」というなんだか面白いはずの(しかしそれだけでは十分に面白くない)場所への「気づき」があって、それが「ずらして」提示されることによって本来の面白さが引き出されているわけであるが、この「気づき」と「ずらし」はこの連作に於る重要なポイントだと思う。
靴ひものようななにかが干してある商店街を吹き抜ける風
「靴ひものようななにか干してある」という気づき、これもまたささやかな気づきではあるが、冒頭に「靴ひものようななにか」が提示されると、それがどのようなものなのか妙に気になる。気になるのだが、「商店街を吹き抜ける風」が、そんなものはまるでなかったかのように爽やかに吹き流してしまう。風が読者の焦点をずらしてしまうのだ。靴ひものようななにかとは一体なんだったのだろうか。
苔に苔が
この歌も面白い。狛犬に苔が重なるように生えているという着眼点自体はこれまたかなり渋いのであるが、その点を「いるのか」と軽い疑問形で提示し、「ますますでこぼこになっている」と、くだけた言葉で表現している。渋い事象に渋い言葉をぶつけるのではなく、主題とは「ずれた」軽い言葉でさらっと流してゆく(それでいて「
なんとかという大統領を勝手に応援するなんとかという町に来ました
本棚の上に鏡を立てかけてあり合わせからはじまる暮らし
新しい町、新しい生活ではあるが、文体にも内容にも気負いはない。
ゆっくりと時間をかけてぶつかって大きく立ち上がる波しぶき
発砲スチロールの箱をしずかにかたむけて魚屋が水を捨てるゆうぐれ
水の描写はまるで眼前に迫るようであるが、彼の気負わない文体もまた、外の事象に対して水のように柔らかなのかも知れない。