山崎聡子の第一歌集『手のひらの花火』(2013、短歌研究社)を読んだ。この歌集は作者の「短歌をはじめた十九歳のときから最近つくったものまで」の作品を集めたもので、歌集前半の歌には定型にきっちりあてはめたようなややぎこちない印象を受けるものが多いのに対して、歌集中盤以降徐々に独自の文体を獲得していくような過程が確認される点から、編年体に近い形式で編まれたものだと思う。この評では、文体に十分な成熟が見られる歌集終盤の歌のみを扱う。
息が夜に溶けだしそうで手で覆う映画を生きてそして死にたい
この歌集には映画の印象的なシーンを切り抜いたような作品が多い。生活感を漂わせつつもどこかふわふわとしたフィクショナルな空気感があるというべきか。
ともに住むこわさを胸にのみこんでかすれた声で歌うバースデー
どれほどの渇望かもうわからない君とゆっくりゆくアーケード
ネオン目に映してわらいこの夜の弱さのことを語り合いたい
かすれた声で歌うバースデー、君とゆっくりゆくアーケード、この夜の弱さのことを語り合いたい――この歌集を読んでいて、こういった言い回しに最も強い魅力を感じる。なんだろう。どう云うべきだろうか。心が温かくなるようなどきどきする感じ、それでいてなんだか安心できるような感じ。ゆったりとした文体と作品内での時間の流れが調和するようで心地良い。
光をモティーフにした作品が多いのも印象的だ。ここではそのうちの4首を個別に見てみたい。
屈折ののちの明るい日々のなか夜風を裸眼の両目におくる
光の「屈折」と心理的「屈折」が重ね合され、そこからの開放が描かれる。眼鏡やコンタクトによる過剰な「屈折」を経ない「裸眼」ではあるが、そこにあてられるのは光ではなく「夜」の「風」であることに注目したい。
暗転とそして明転 くりかえしくりかえし朝と夜を迎える
日々の生活が光の明滅に置き換えられる。前半は暗転→明転、後半は朝(明転)→夜(暗転)と、順番が入れ替えられることによって、光と闇の――朝と夜の――転換はほとんどひとつに重なるかのように加速して感じられる。
冷凍庫のひかる氷よわたしたち言葉もこうして覚えていった
記憶の源泉としての光。
目を閉じて音だけを聞く映画にも光はあってそれを見ている
光は見えていないはずである。しかし「光はあってそれを見ている」。4首に共通して「光」は視覚の要因としての「光」に留まらず、それは記憶であったり、感情であったり、あるいは生活そのものであったりする。
山崎は「あとがきにかえて――記憶を感光させること――」に於て、自らの歌作りを「記憶や感情を短歌という形に感光させる」と表現している。私たちが歌集から直接得られる「光」は文字であり、言葉なわけだけれど、そこに込められている諸々の「光」も見えるような、光を感じられる歌集『手のひらの花火』、不思議な魅力を放つ作品だと思う。
ここに紹介したのはこの歌集の魅力のほんの一部にすぎない。最後に数首引用してこの評を終える。
海と川が交わる町の匂いなど(晴雨)からだに知らしめてゆく
電車って燃えつきながら走るから見送るだけで今日はいいんだ
へび花火ひとつを君の手のひらに終わりを知っている顔で置く
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