白いはなびらがはらはらと降りてくる。あたりを見まわしても、ただ青々と新緑の樹々が生い繁るばかりで、白い花は咲いていない。
白いはなびらの落ちてゐるさみどりの森の何処かに咲くしろい花
花の名をひとつ知りても、てのひらのあなたのことはなにも知らない
白いはなびらがはらはらと降りてくる。あたりを見まわしても、ただ青々と新緑の樹々が生い繁るばかりで、白い花は咲いていない。
白いはなびらの落ちてゐるさみどりの森の何処かに咲くしろい花
花の名をひとつ知りても、てのひらのあなたのことはなにも知らない
百舌鳥へゆく。百舌鳥には、有名な大仙陵古墳(仁徳天皇領)を始めとした多くの古墳が集結している。大仙陵古墳やニサンザイ古墳のような巨大な墳丘を誇る墳墓には圧倒されたが、私としては、直接墳丘に登れるような、より小規模な古墳に魅力を感じた。なかでも中百舌鳥駅近くの御廟表塚古墳は、脇に樹齢800~1000年とされるクスノキが植えられ、その奥に筒井順慶の子孫の屋敷とされる「筒井邸」が垣間見える等、見どころの多いオススメの古墳だ。それにしても、墳丘あるところ、森あり、とでもいうべきだろうか、日本の古墳の上には必ず木々が生えている。これは本来の姿とは関係のないものなのであろうが、原形を留めずにただの「土」としてあるかのような墳墓のありさまには、ある好ましい「様式」の存在を確かに感じるのである。
くすのきの葉の生えかはる
短歌結社誌『未来』の4月号を読んだ。今月も秀歌選をつくってしまおうと思う。『未来』2013年4月号に掲載されているすべての短歌より7首選んだ。掲載順に記す。
1 残夢とや草むら中に鳴き出づる虫の音と聞く目覚まし今朝は 米田律子
2 夜の駅三つほど過ぎ焦燥をいまだおし殺しきれずにいるのだ 阿部愛
3 日の丸に向かって射精できそうなくらい愛しているという比喩 阿部愛
4 シャンプーと思って取ったらコンディショナーだったので今日はもう買いません 阿部愛
5 まだ僕は平成二十二年製十円玉の光を見てない 中島裕介
6 靴跡に靴をかさねてやわらかい雪を漕ぐ非武装地帯の 柳澤美晴
7 海に雨(涙はすこし薄くなる)ウミガメプールに降るつよい雨 やすたけまり
1――このタイプの緊迫感を表現できる現代歌人を米田律子の外に知らない。結句「目覚まし今朝は」の独自性。
2――焦燥。「夜の駅三つほど過ぎ」の場面設定が秀逸。
3――「比喩」であるという奇妙な落ち着き。
4――あるある的内容なのかと思ったらそうではないという。
5――それだけの事実。
6――北海道の方言で雪の中を歩くことを「雪を漕ぐ」と言うらしい。ここでは方言として面白いのではなく、「非武装地帯」に繋ぐ表現として重要。非武装地帯の衝撃。それはもう非武装地帯なのであろうが、ここでの意図は。
7――雨は海に降り、そしてウミガメプールに降っている。涙はウミガメのものなのか、他の誰かのものなのか。ほとんど水属性の語で一首を構成する構想が興味深い。
『早稲田短歌42号』(早稲田短歌会)を読んだ。
今回の早稲田短歌についてちょっと気になったのは、何やら斬新で挑戦的な意味内容を誇る一方で、短歌の韻律については妙に保守的な印象を受ける作品が多かったことだ。この奇妙なアンバランス感、言葉の意味としての作者の情念が突出して、文体が置き去りにされているような感覚が、私の中に大変な違和を生み出してしまっている。
そんな中、中盤に3つ連続している山中千瀬の連作(「ロード・ムービー」、「グランド・フィナーレ」、「クレジット」)に見られる作品群が、際立った存在感を放っているように思えた。特に面白いと思った3首を引用したい。
サーカスは黙って行ってしまった。置いていかれた町で暮らした
空想のなかに何度も水没の故郷を きれい。きれい。と言った
あまつぶが町をあざやかにしていく(見てなよ)生まれたいのだね町
一見して、虚構世界の鮮やかな描写が印象的であるが、それと同時に、言葉が動いていることに注目したい。動いている、というのは、例えば二首目の「水没の故郷を きれい。きれい。と言った」の部分であるが、ここでは、「故郷を」と「きれい」の間に一字空けを挿入して、2つの「きれい」を句点で区切っていくことによって韻律が断続的に加速し、更に2つの「きれい。」が第四句と第五句にまたがることによってそのテンションが減衰しない。と、これはやや個人的な解釈かも知れないが、いずれにせよ、三首目の「(見てなよ)」が印象的であるように、繊細に配慮された表記と、巧みな句跨り的構造がもたらす、「普通の短歌的韻律」からちょっと冒険したような、独創的過ぎない独創的な韻律が、どこか日常の影が感じられる虚構世界の描写と重なって、作品の世界へと読者が踏み込むことを容易にしていると云えるだろう。
最近、小説界隈からの短歌批判をいくつか読んで、短歌の面白さとはなんだろうかと考えていたのだが、それは何も特別なことではなくて、短歌の定義にその答えはあるのではないかと思う。つまり、「短歌は短くて、独自の韻律を持つ」ここに尽きるのではないであろうか。意味や内容の充実を主に楽しみたいのなら、短歌よりも優れている表現形式はいくらでもある。それでも、短歌を読みたい。面白い短歌を読みたい。そういう意思で私は短歌を読み、短歌について書いているわけであるが、そんなときに、山中の作品のような、短歌の短歌的な部分に十分な工夫が感じられる作品を読むと、やっぱり短歌って楽しいよね。面白いよね。っていうことを再確認できて、またその先を見据えることができる。私は短歌の将来を悲観していない。