2012年5月5日土曜日

聞きわけながら

亀岡へゆく。亀岡市は京都市の西隣の市で、京都中心部の整然と区画された街並とはうってかわり、美しい田園が広がっている。こんなにいいところに来たのは久しぶりだ。確かに京都の寺社は素晴らしい。これまでに訪れた銀閣寺、青蓮院、天龍寺はいずれも、非の打ちどころのない庭園を有していた。さまざまな植物を寸分の隙もなく配置する造園技術には、平安以来の京都の重厚な伝統を感じずにはいられない。いられないが、どのように優れた庭園も、自然の美において、一枚の水田に勝ることはできないのだと思う。

鳥のこゑを聞きわけながらまだなにも植ゑられてゐない田を歩みをり

嵯峨野ゆく

嵯峨へゆく。

こんなところにも紋黄蝶ゐて嵯峨野ゆくわたしと山吹と竹の原

2012年5月2日水曜日

本郷短歌 創刊号

『本郷短歌』(東京大学本郷短歌会)の創刊号を読んだ。

上の表紙の写真を見て頂ければわかると思うが、この雑誌、非常に渋いフォントとレイアウトで構成されている。p.26の「座談会 作歌の原点、現在地」というコラムの題字は巨大な「ヒラギノ角ゴシック体」で書かれていて、60年代の学生闘争が再来しそうな気配がある。短歌もまた重厚で読み応えのある作品が多く、エキセントリックな早稲田短歌会とは良い意味で対照的な存在だと思った。なかでも、

どつぷりと紅茶にレモン片 人に言へざる夢を見てしまひたり  安田百合絵

この一首は興味深い。「どつぷりと」という大胆な初句で口火を切り、「レモン片」の「片」を第三句にはみ出させることによってレモン片の重量感を存分にアピールして、そのあとに本題をつなげる個性的なスタイルの短歌だ。「どつぷり」の促音の「つ」を旧仮名で表記しているのも効いていると思う。

ところで、この本郷短歌の創刊号についてひとつ気になることがある。小原奈実の短歌がない、ということだ。小原奈実氏は本郷短歌会に所属する若い歌人で、私は彼女の存在を2011年4月5日の「朝日新聞(夕刊)」に掲載されていた「刃と葉脈」という連作で知った。そこには、

わが今日を忘れむ我かとりあへず鈍色のダウンコートなど着て

白梅の八重ゆるみゆくまひるまにゆるみあまりしひとひらの落つ

というような歌があったのだけれども、この2首には驚愕した。

まず、一首目についてだが、第二句までは静かでテンポのいい言葉でリズムをつくって、第三句で突然「とりあへず」などという投げやりな語をもってきて流れを転じ、ここで「鈍色のダウコート」という異常に渋いアイテムを持ち出してくる。そして最後の「など着て」――この4音が最も恐ろしい。この気韻のある締めによって読者は幽玄の世界へと旅立ち、閑寂な趣に心を遊ばせることになる。その別天地への起点が「ダウンコート」という日常的な存在であることも興味深い。

二首目は雅な歌だ。現代短歌を雅だなどというのはともすれば皮肉のように聞こえるかもしれないが、この歌についてはそんなことはない。現実の白梅に於てこのような情景を観測することは不可能のように思えるが、小原奈実の短歌の中にはリアリティーをもって存在している。なにか藤原定家の短歌に見られるような夢幻性を現代的にシャープにアレンジしたような、クラシカルな香りのする新しさを感じる。また、この歌に於ても締めの「落つ」が極めて上質であることにも注目したい。

記念すべき本郷短歌の創刊号で、短歌史に新たな足跡を残すであろう小原奈実の作品に立ち会えなかったことは残念と云うより他ない。

2012年4月30日月曜日

2012年4月

4月に詠んだ短歌をまとめておく。既にこのブログに公開した歌が4首、そうでないものが17首で、計21首。御感想を頂けると嬉しい。

残照

緑色の世界をみてゐた虫の眼に燃えるグラジオラスの残照
(靉光「グラジオラス」)

もつとたかいところへゆけたら空のやうに僕たちもまた青い存在
(天之蒼蒼其正色邪、其遠而無所至極邪 、其視下也、亦若是則已矣  荘周『荘子』)

木の肌と同じ色もてあをによし奈良の小鹿のたたずまひ見ゆ

紅白の蓮(はちす)花咲く東大寺襖の内に風わたりける
(小泉淳作「蓮池」)

ともしびを順にならべて東大寺鹿はいづこの宿に眠れる

あたたかい朝もあるから自転車の空気を入れて並木道ゆく

桃色のしだれ桜をかたはらに平等院の春風は吹く

薄日さすもみぢの青さたしかめて桜ちりしく宇治の道ゆく

はなびらと見まがふほどに紋黄蝶さくら舞ひふる鴨川にとぶ

自転車の骨組みゆるく解体し春の風うつ両翼となる

ひともとの楽園 熊蜂(くまんばち)が来て白詰草の先にとまれり

おもたくて――柔くたわめる茎を持ち白詰草に熊蜂垂るる

オレンジ色の層をにじませ暮れてゆく町のあはひに漕ぎ出づる舟

春雨の降る音がする 菜の花の黄色は届かない場所にあり

春雨の降る音がする 楠を順にめぐつて匂ひ立つ朝

春秋をかさねて青き楠の葉のちりゆくものとちりゆかぬものと

もみぢせる葉影ちりゆく楠に残れる若き青き葉を見る

鉄のドアの前にたたずみ色もなく暮れゆく町の蝙蝠を見る

ドアノブは冷たくふれて色もなく暮れゆく空に蝙蝠が飛ぶ

薄翅に白く陽のさす常磐木の葉影ふるなへさまよへる蝶

松かさはすてられずありかごとともに、わたしとともに初夏の町ゆく

2012年4月29日日曜日

初夏の町

青蓮院へゆく。庭の完成度が素晴らしかった。

松かさはすてられずありかごとともに、わたしとともに初夏の町ゆく

2012年4月16日月曜日

早稲田短歌四十一号

『早稲田短歌四十一号』(早稲田短歌会)を読んだ。

この雑誌には多くの歌人が参加していたが、皆個性的なスタイルで奇抜な作品が目立った。この雑誌に載っているようなどこか若々しく攻撃的で、情念の濃い作品が最近のトレンドなのかもしれないが、私にはどうも、なにか爆発的な感情は読みとれるのだけれどもそれ以上の感情移入ができない作品が多かった。時代に取り残されたような淋しい心持ちがする。ただ、

祖父の記憶は雪に近づきわたくしはピエロの顔をしたゆきだるま  田口綾子

新しい国になりたいならおいで電気はつけっぱなしでいいよ  平岡直子

おっぱいのせいで内面的なものがうまれくる ここ ここにも皮膚が  山中千瀬

この3首はすごく面白いと思った。特に一首目の田口綾子氏に私はある思い入れがある。

2009年7月18日の「朝日新聞(夕刊)」に田口綾子の連作「風上に立つ」が掲載されていた。そこには、

飲みものを迷へるひとの財布から多少はみ出てゐる図書カード

胡椒挽きのもつ艶(つや)やかな曲面に君の煙草の歪むを見たり

傘を差す君の腕には君の血が流るることから目を逸らしたり

坂ひとつ越えて梅雨明け 背骨まであかるく君の風上に立つ

のような作品があったのだけれども、私はこれらの作品を見て無性に自分も短歌を詠んでみたくなった。それ以前は短歌に興味はあっても自分で詠んでみようという発想はなかった。このときに詠んだ数首の短歌はあまりにもできが悪く、私が本格的に短歌を始めるのは2010年の12月となるが、もし田口綾子氏の歌を見ていなければ短歌を始めることはなかったかもしれない。

確かな観察眼に裏付けされた情景描写に、現代的な感慨を巧みに乗せる手法には彼女の高い技量を窺わせるが、それだけではない。どこか洗練され切らない素朴な旋律が読むものの心を打つのだ。現代において特別な価値を持つ歌人の一人だと思う。

2012年4月9日月曜日

ともしびを

今年の1月に亡くなった小泉淳作氏の襖絵が東大寺で特別に公開されていた。極めて精緻なタッチが見るものを驚嘆させていたが、その一方でしだれ桜の花びらや浮かぶ月は単純な星形や塗りつぶした円で描かれていることがおもしろく感じられた。

木の肌と同じ色もてあをによし奈良の小鹿のたたずまひ見ゆ
紅白の蓮(はちす)花咲く東大寺襖の内に風わたりける
(小泉淳作「蓮池」)
ともしびを順にならべて東大寺鹿はいづこの宿に眠れる