丹沢へ行く。梅が咲きはじめていた。
あさみどり苔しく幹にてのひらをかさねて遠き沢の音をきく
(はかなしやわが身の果てよあさみどり野辺にたなびく霞と思へば 小野小町『新古今和歌集』)
一俳句ファンが勝手につくってしまう秀句選、第9回は正岡子規(1867~1902)だ。彼は江戸時代以来類型化した俳諧の発句を「月並」として批判し、近代文学としての「俳句」を創始した人物だ。彼は短歌においても「古今和歌集」を理想として単調化した当時の短歌を批判し、同様の革新運動を試みた。このように、既存の流派や師弟関係を嫌った子規ではあったが、俳句においては「ホトトギス派」、短歌においては「アララギ派」という、彼の流れを汲む流派が生まれ、ホトトギス派は高浜虚子の提唱した「花鳥諷詠」という概念によって、アララギ派は「万葉調」や「客観写生」に固執したことによって徐々に類型化し、次第にかつての「月並」と変わらない様相を呈するようになった。今や子規は代表句とされる、
柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺
と司馬遼太郎の「坂の上の雲」の登場人物としてわずかに知られるのみだ。しかし、彼の「代表句」も「坂の上の雲」も子規本来の魅力を表しているとは言い難い。ここに、彼の句が本来持つ生きた魅力を少しでも再現できれば幸いだ。高浜虚子編『子規句集』(岩波書店)所収の2306句より26句選んだ。概ね年代順に記す。
1 梅雨晴やところ〴〵に蟻の道
2 赤蜻蛉筑波に雲もなかりけり
3 冬ざれや稲荷の茶屋の油揚
4 吹きたまる落葉や町の行き止まり
5 六月を綺麗な風の吹くことよ
6 冬ごもり世間の音を聞いて居る
7 つらなりていくつも丸し雪の岡
8 帰り咲く八重の桜や法隆寺
9 朝顔の一輪咲きし熱さかな
10 葉桜はつまらぬものよ隅田川
11 行く年を母すこやかに我病めり
12 南天に雪吹きつけて雀鳴く
13 いくたびも雪の深さを尋ねけり
14 障子明けよ上野の雪を一目見ん
15 日あたりのよき部屋一つ冬籠
16 鷄頭の黒きにそゝぐ時雨かな
17 林檎くふて牡丹の前に死なん哉
18 鷄頭の皆倒れたる野分哉
19 春寒き寒暖計や水仙花
20 薫風や千山の緑寺一つ
21 仏壇も火燵もあるや四畳半
22 けしの花大きな蝶のとまりけり
23 母と二人いもうとを待つ夜寒かな
24 梅雨晴や蜩鳴くと書く日記
25 薔薇を剪る鋏刀の音や五月晴
26 黒きまでに紫深き葡萄かな
まず、2、8、9、12を見てほしい。明治の新しい風を感じるような清々しい趣があり、また、しっかりと造り込まれた、堅実な句風からは、子規の実力を読み取ることができる。ただ、これらの句だけでは子規の魅力を語り尽くすことはできない。
晩年に近づくにつれて、だんだんと句の内容が簡単になってくることに注目してほしい。例えば、22はけしの花に大きな蝶がとまっているという、ただそれだけの描写で、けしの花についての直接的な修飾は一切ないが、けしの花が実に生々しく、量感豊かに、眼前に迫るように感じられる。この場合、「大きな蝶」が「けしの花」の魅力を最大限に引き出す「ツボ」となっていて、16、25、26においても同様に最低限の描写で、それぞれ「鶏頭」、「薔薇」、「葡萄」の持ち味を最大限に引き出している。
そしてこの端的な味わいのさらに一歩先をゆく作品として13がある。ここでは、ただ何回も雪の深さを尋ねたというだけで、外の景色については描写そのものが存在しないが、この句を読めば外の雪景色の様子がありありと浮かぶのではないだろうか。また、描写がないのだから、その雪景色は実際に子規の外にある雪景色と同じであるはずがない。読者ひとりひとりの心の原風景としての雪景色なのだ。そしてそのイメージを引き出したのは、何回も雪の深さを尋ねた、子規の自然に対する大きな憧れに他ならない。子規はこの句や17にあるように、自然に対して盲目的とも言える強い憧れを抱いていた。また、11にあるように彼は結核を患い、死に至るまでの約7年間を病床で過ごした。日々の生活の中で常に死に肉薄していた子規は、死の本質である無の境地を体得し、そしてその無をもって、自然、すなわち生を如実に表現できることに気づいたのではないだろうか。つまり、対象そのものを修飾するのではなく、余白で描写するということである。ここにおいて子規の句は、読者個々人の心にある本物の自然、本物の感動を引き出し、純粋な憧れの世界へと私たちをいざなうことになる。
一俳句ファンが勝手につくってしまう秀句選、第8回は与謝蕪村(1716~1784)だ。彼の句は当初松尾芭蕉の陰に隠れてあまり認知されていなかったが、正岡子規によって再発見され、芭蕉と並ぶ「俳聖」として広く認識されるようになり、また、萩原朔太郎は、「郷愁の詩人 与謝蕪村」において、蕪村の句に近代的な抒情性があることを説き、蕪村には「日本最古のロマン派詩人」とでも言うべき魅力が隠されていることが示された。『蕪村俳句集』(岩波書店)所収の自選1463句より21句選んだ。掲載順に記す。
1 鶯の声遠き日も暮にけり
2 春水や四条五条の橋の下
3 はるさめや暮なんとしてけふも有
4 春雨やものがたりゆく簑と傘
5 春の海
6 雛祭る都はづれや桃の月
7 さくらより桃にしたしき
8
9 うつむけに春うちあけて藤の花
10 菜の花や月は東に日は西に
11 ちりて
12 蚊屋を出て奈良を立ゆく若葉哉
13 さみだれや大河を前に家二軒
14 雷に
15 あま酒の地獄もちかし箱根山
16 名月やうさぎのわたる諏訪の海
17 父母のことのみおもふ秋のくれ
18 かなしさや釣の糸
19 初冬や日和になりし京はづれ
20 狐火や髑髏に雨のたまる夜に
21 既に得し鯨や逃て月ひとり
蕪村の句は、一読してその色彩の豊かさと抒情の深さにほれぼれとするのだが、よく読んでみるとかなり不思議な構造を持っていることがわかる。
まず、彼の代表句として高名な5を見てほしい。この句は、春の海ののどかな情景として楽しめるが、もうちょっと踏み込んで読むと、「のたり〳〵」が「終日」と指定されているのはかなり特殊な状況で、これをリアルに表すと「春の海のたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたり――」という風になって気が狂いそうだ。しかし、実際にはこのような奇怪な印象は受けない。蕪村の句においては、このような作品の背後にある「違和感」がむしろ詩的な感動を増幅させていると云えるだろう。
そのような「違和感」の例として異常なまでの「小ささ」への志向がある。例えば13においては、最初に五月雨に増水する大河を持ち出して、「前に」と近いことを強調してから「家二軒」と結ぶ。大河を前にした家というのはあまりにもはかなく小さい存在であるが、さらに「二軒」というのはこれがまた頼りなく小さい――一軒ならば逆に開き直った強さがあるというものだ。また6においては、雛といういかにも小さいものを語るのにわざわざ都という大きなものを持ち出して対比させており、しかも「はづれ」と指定することによって、都から都はづれ、そしてその中の一軒、最後に雛、というように段階的に小さくなっていく様子がイメージできるように表現されている。そしてその小ささの中に「桃の月」である。ここで月は現実の巨大な衛星としてではなく、まるで小さな飴玉のような――美味しく頂けそうな――ものとして提示される。これだけ小さければ私たちの心にも素直におさまる。そして重要なのは、月が小さくなると、その下の都もまるでミニチュアのように小さくなるということで、そういう風に把握していくと、今度は逆に最初の雛が大きく感じられるような、あべこべなおもしろさもある。
また、時間の表現にも蕪村独特のものがある。11はそのわかりやすい例だが、さらに8を見ると不思議な気持ちになる。「きのふの空のありどころ」とは一体なんだろうか。昨日見た同じ場所の空に今日凧が上がっている、と句意は解釈できるが、「きのふの空」というかなり曖昧な、とても「実体」とは言えない存在に「ありどころ」を想定する表現は異常で、よく読むと不可解な心理状態に陥ってしまう。しかし、そこに存在する凧だけは確かなのだ。昨日という過去への淡い幻想の中に今日という確かな凧が上がっているのだ。
このように蕪村は、ものの大きさや時間その他の概念を自在に変化させて読者の琴線を鳴らす高度なテクニックを有していたことがわかる。しかし、彼が本当に「テクニック」を駆使してこれらの句を詠んだのかは疑わしい。というのも、蕪村の句には狙ったわざとらしさがない。自然体であり、だからこそ今も多くの人に愛される。彼はそういう意味では本物の天才なのかもしれない。
去年の6月、8月、9月、今年の1月と2月に詠んだ短歌をまとめておく。既にこのブログに公開した歌が2首、そうでないものが13首で、計15首。御感想を頂けると嬉しい。
地平
蒼鷺の澄める
アヲサギハウゴカズ 動く私もしばらくは蒼い身体を見つめてゐよう
純色の構造物と水田に囲まれて雨後の富山市に立つ
一二三四五六七八九鴉ばかりの水田である
夏風は田の面をゆらし、いつからか波のかたちは変はらぬままで
簡単な人でありたい薄い雲ばかり行き交ふ夏空のもと
(かんたんなものでありたい 朽ちるとき首がかたんとはずれるような 佐藤弓生『眼鏡屋は夕ぐれのため』)
大きさがわからないから 雨をもつ雲と雨をもたない僕と
この町の
暮れてゆく街並はあり少しづつ紅き地平へ向かふ雲見ゆ
墜落のかたちをなしてひとすぢの雲が裂きゆく天空を見る
踏切の鳴る音がする冬空にまだ青い街の色を見てゐた
(うつくしい牛の眼をして運命がまだやわらかいぼくを見ていた 佐藤弓生『薄い街』)
駅の上を鳥が飛んでゆく 僕たちはまだ青い街の色を見てゐた
逆光のなかにある街 清水の舞台の傾斜たしかめながら
水中のあしをわづかにはためかせ鴨は水面に静止してゐた
円形の波紋を
短歌同人誌『開放区』(現代短歌館)の第91号を読んだ。笹谷潤子の連作「今、ここで」に魅力を感じる。特に、
寒ければいよいよ甘し大根のやうなわれなり冬を愛する
人生の晩ごはんまだ食べてない ひざに眠れる猫をなでたり
この春は白き服着む今ここのすべてをうつす旗となるため
この3首は印象深い。極めて日常的な事柄からの連続的でほのかな世界観の拡張、優しさが感じられる語調、自然で必然的な文語・旧仮名遣いの使用――こういう短歌を読むとつい嬉しくなってしまう。三首目の「旗」は実際に「象徴」として使用されるものだけれど、言葉の上でも象徴として用いると、二重の象徴性というか、特殊な効果が表れるような気がする。
それにしても、この同人誌、完成度が非常に高い。作品が読みやすい文字サイズ、フォントで並べられていて、間のエッセイや歌論も興味深く、充実している。
この号では「短歌の前衛を考える」という特集があって、前川博、田島邦彦、石川幸雄の三氏が前衛短歌についての歌論を発表していた。私は前衛短歌の歴史に疎いので、この歌論は勉強になった。
ここで、一応「前衛短歌」について軽く説明すると、前衛短歌というのは、1950年代に塚本邦雄の第一歌集『水葬物語』を契機として起こった一連の革新的な短歌のことで、他に前衛短歌とされる代表的な歌人に、寺山修司、岡井隆などがいる。どう「革新的」かについては、私が説明するよりも「塚本邦雄」でウィキペディアを見たほうが早い。
実は私は、この前衛短歌のよさがわからないことに悩んでいた。自分はよさがわからないのに、多くの歌人が塚本邦雄や寺山修司の作品を読んで短歌を始めたとか、影響を受けているとか言うのを見るとどうにももどかしい。しかし、この思いは石川幸雄の歌論「日の当たる野を贈るために」の中に引用されていた菱川善夫の歌論『敗北の抒情』(1958年)の一節によって解消されたように思う。孫引きになってしまうが、引用したい。
まことに韻律は墓場である。晶子を始めとする近代短歌史上の、あらゆる天才たちを没落へとひきづりおろしたものが、韻律であり、音楽であった。短歌的抒情が例外なく古典的世界へ回帰するという抒情的秩序、実在する現実と人間との相互関係を、完全に切断する抒情の終末、これが墓場でなくなんであろうか。
もちろん菱川善夫は、この「墓場」というのを否定的な意味で用いていて、
そして今もなおそのような墓場の制作に、営々としていそしんでいるマイナー・ポエットに、心底から哀悼し得るもののみが、はじめて現代の歌人たり得るのである。
と結論している。この文章はめちゃめちゃうまい。私にもここで言う「墓場」を叩き壊して「実在する現実と人間との相互関係」を追求するのが前衛短歌だってことがよくわかった。そして自分が前衛短歌のよさがわからない理由もわかった。
私は、「実在する現実と人間との相互関係」よりも「墓」のほうに関心があって、「墓場の制作に、営々としていそしんでいるマイナー・ポエット」なんてフレーズに痛烈な皮肉を感じるどころか、「最高じゃん、それ」となってしまう。これでは前衛短歌を理解できるはずがない。
4月と5月に詠んだ短歌をまとめておく。すべて既にこのブログに公開した歌で、計7首。御感想を頂けると嬉しい。
球体
薄闇のホームを抜けて無灯火の車両に淡き春の陽の満つ
大学へ向かふ昇り坂 人並の幸せとしてさくらはな咲く
春雨の降る駐車場帰りゆく浮かぬ心にあまた水紋
もうやはらかくほほをうつこともなく――霧中に浮かぶ街に雨降る
球体の破壊あるいはたんぽぽの綿毛をとばす 遠くへ あるいは
どこへでもゆきたくてどこにもゆけない私のめざすゆきさきは 街
いまひとたび逢ふことはなくここに昨日しづかに伏してゐし蜂の貌