2012年3月6日火曜日

正岡子規 秀句選9

一俳句ファンが勝手につくってしまう秀句選、第9回は正岡子規(1867~1902)だ。彼は江戸時代以来類型化した俳諧の発句を「月並」として批判し、近代文学としての「俳句」を創始した人物だ。彼は短歌においても「古今和歌集」を理想として単調化した当時の短歌を批判し、同様の革新運動を試みた。このように、既存の流派や師弟関係を嫌った子規ではあったが、俳句においては「ホトトギス派」、短歌においては「アララギ派」という、彼の流れを汲む流派が生まれ、ホトトギス派は高浜虚子の提唱した「花鳥諷詠」という概念によって、アララギ派は「万葉調」や「客観写生」に固執したことによって徐々に類型化し、次第にかつての「月並」と変わらない様相を呈するようになった。今や子規は代表句とされる、

柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺

と司馬遼太郎の「坂の上の雲」の登場人物としてわずかに知られるのみだ。しかし、彼の「代表句」も「坂の上の雲」も子規本来の魅力を表しているとは言い難い。ここに、彼の句が本来持つ生きた魅力を少しでも再現できれば幸いだ。高浜虚子編『子規句集』(岩波書店)所収の2306句より26句選んだ。概ね年代順に記す。

1  梅雨晴やところ〴〵に蟻の道

2  赤蜻蛉筑波に雲もなかりけり

3  冬ざれや稲荷の茶屋の油揚

4  吹きたまる落葉や町の行き止まり

5  六月を綺麗な風の吹くことよ

6  冬ごもり世間の音を聞いて居る

7  つらなりていくつも丸し雪の岡

8  帰り咲く八重の桜や法隆寺

9  朝顔の一輪咲きし熱さかな

10 葉桜はつまらぬものよ隅田川

11 行く年を母すこやかに我病めり

12 南天に雪吹きつけて雀鳴く

13 いくたびも雪の深さを尋ねけり

14 障子明けよ上野の雪を一目見ん

15 日あたりのよき部屋一つ冬籠

16 鷄頭の黒きにそゝぐ時雨かな

17 林檎くふて牡丹の前に死なん哉

18 鷄頭の皆倒れたる野分哉

19 春寒き寒暖計や水仙花

20 薫風や千山の緑寺一つ

21 仏壇も火燵もあるや四畳半

22 けしの花大きな蝶のとまりけり

23 母と二人いもうとを待つ夜寒かな

24 梅雨晴や蜩鳴くと書く日記

25 薔薇を剪る鋏刀の音や五月晴

26 黒きまでに紫深き葡萄かな

まず、2、8、9、12を見てほしい。明治の新しい風を感じるような清々しい趣があり、また、しっかりと造り込まれた、堅実な句風からは、子規の実力を読み取ることができる。ただ、これらの句だけでは子規の魅力を語り尽くすことはできない。

晩年に近づくにつれて、だんだんと句の内容が簡単になってくることに注目してほしい。例えば、22はけしの花に大きな蝶がとまっているという、ただそれだけの描写で、けしの花についての直接的な修飾は一切ないが、けしの花が実に生々しく、量感豊かに、眼前に迫るように感じられる。この場合、「大きな蝶」が「けしの花」の魅力を最大限に引き出す「ツボ」となっていて、16、25、26においても同様に最低限の描写で、それぞれ「鶏頭」、「薔薇」、「葡萄」の持ち味を最大限に引き出している。

そしてこの端的な味わいのさらに一歩先をゆく作品として13がある。ここでは、ただ何回も雪の深さを尋ねたというだけで、外の景色については描写そのものが存在しないが、この句を読めば外の雪景色の様子がありありと浮かぶのではないだろうか。また、描写がないのだから、その雪景色は実際に子規の外にある雪景色と同じであるはずがない。読者ひとりひとりの心の原風景としての雪景色なのだ。そしてそのイメージを引き出したのは、何回も雪の深さを尋ねた、子規の自然に対する大きな憧れに他ならない。子規はこの句や17にあるように、自然に対して盲目的とも言える強い憧れを抱いていた。また、11にあるように彼は結核を患い、死に至るまでの約7年間を病床で過ごした。日々の生活の中で常に死に肉薄していた子規は、死の本質である無の境地を体得し、そしてその無をもって、自然、すなわち生を如実に表現できることに気づいたのではないだろうか。つまり、対象そのものを修飾するのではなく、余白で描写するということである。ここにおいて子規の句は、読者個々人の心にある本物の自然、本物の感動を引き出し、純粋な憧れの世界へと私たちをいざなうことになる。

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