一俳句ファンが勝手につくってしまう秀句選、第8回は与謝蕪村(1716~1784)だ。彼の句は当初松尾芭蕉の陰に隠れてあまり認知されていなかったが、正岡子規によって再発見され、芭蕉と並ぶ「俳聖」として広く認識されるようになり、また、萩原朔太郎は、「郷愁の詩人 与謝蕪村」において、蕪村の句に近代的な抒情性があることを説き、蕪村には「日本最古のロマン派詩人」とでも言うべき魅力が隠されていることが示された。『蕪村俳句集』(岩波書店)所収の自選1463句より21句選んだ。掲載順に記す。
1 鶯の声遠き日も暮にけり
2 春水や四条五条の橋の下
3 はるさめや暮なんとしてけふも有
4 春雨やものがたりゆく簑と傘
5 春の海
6 雛祭る都はづれや桃の月
7 さくらより桃にしたしき
8
9 うつむけに春うちあけて藤の花
10 菜の花や月は東に日は西に
11 ちりて
12 蚊屋を出て奈良を立ゆく若葉哉
13 さみだれや大河を前に家二軒
14 雷に
15 あま酒の地獄もちかし箱根山
16 名月やうさぎのわたる諏訪の海
17 父母のことのみおもふ秋のくれ
18 かなしさや釣の糸
19 初冬や日和になりし京はづれ
20 狐火や髑髏に雨のたまる夜に
21 既に得し鯨や逃て月ひとり
蕪村の句は、一読してその色彩の豊かさと抒情の深さにほれぼれとするのだが、よく読んでみるとかなり不思議な構造を持っていることがわかる。
まず、彼の代表句として高名な5を見てほしい。この句は、春の海ののどかな情景として楽しめるが、もうちょっと踏み込んで読むと、「のたり〳〵」が「終日」と指定されているのはかなり特殊な状況で、これをリアルに表すと「春の海のたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたりのたり――」という風になって気が狂いそうだ。しかし、実際にはこのような奇怪な印象は受けない。蕪村の句においては、このような作品の背後にある「違和感」がむしろ詩的な感動を増幅させていると云えるだろう。
そのような「違和感」の例として異常なまでの「小ささ」への志向がある。例えば13においては、最初に五月雨に増水する大河を持ち出して、「前に」と近いことを強調してから「家二軒」と結ぶ。大河を前にした家というのはあまりにもはかなく小さい存在であるが、さらに「二軒」というのはこれがまた頼りなく小さい――一軒ならば逆に開き直った強さがあるというものだ。また6においては、雛といういかにも小さいものを語るのにわざわざ都という大きなものを持ち出して対比させており、しかも「はづれ」と指定することによって、都から都はづれ、そしてその中の一軒、最後に雛、というように段階的に小さくなっていく様子がイメージできるように表現されている。そしてその小ささの中に「桃の月」である。ここで月は現実の巨大な衛星としてではなく、まるで小さな飴玉のような――美味しく頂けそうな――ものとして提示される。これだけ小さければ私たちの心にも素直におさまる。そして重要なのは、月が小さくなると、その下の都もまるでミニチュアのように小さくなるということで、そういう風に把握していくと、今度は逆に最初の雛が大きく感じられるような、あべこべなおもしろさもある。
また、時間の表現にも蕪村独特のものがある。11はそのわかりやすい例だが、さらに8を見ると不思議な気持ちになる。「きのふの空のありどころ」とは一体なんだろうか。昨日見た同じ場所の空に今日凧が上がっている、と句意は解釈できるが、「きのふの空」というかなり曖昧な、とても「実体」とは言えない存在に「ありどころ」を想定する表現は異常で、よく読むと不可解な心理状態に陥ってしまう。しかし、そこに存在する凧だけは確かなのだ。昨日という過去への淡い幻想の中に今日という確かな凧が上がっているのだ。
このように蕪村は、ものの大きさや時間その他の概念を自在に変化させて読者の琴線を鳴らす高度なテクニックを有していたことがわかる。しかし、彼が本当に「テクニック」を駆使してこれらの句を詠んだのかは疑わしい。というのも、蕪村の句には狙ったわざとらしさがない。自然体であり、だからこそ今も多くの人に愛される。彼はそういう意味では本物の天才なのかもしれない。
やあ、僕はごくろうです。お久しぶりっす。
返信削除ここでは初めましてだろうけれど。
家二軒。いいね。
そういや、こがらしや家五軒というのもよかったな。
蕪村はなんか現代に住んでてもおかしくないような感じ。
二軒と五軒でだいぶ印象変わりますよね。ていうか、家の件数で詩情を表現する蕪村の発想が半端ないです。
返信削除現代に住んでてもおかしくないって僕も思います。でも間違いなく江戸時代の人間なわけで、そういうずれが不思議な魅力になっているような気もします。