2011年6月7日火曜日

開放区 第91号

短歌同人誌『開放区』(現代短歌館)の第91号を読んだ。笹谷潤子の連作「今、ここで」に魅力を感じる。特に、

寒ければいよいよ甘し大根のやうなわれなり冬を愛する

人生の晩ごはんまだ食べてない ひざに眠れる猫をなでたり

この春は白き服着む今ここのすべてをうつす旗となるため

この3首は印象深い。極めて日常的な事柄からの連続的でほのかな世界観の拡張、優しさが感じられる語調、自然で必然的な文語・旧仮名遣いの使用――こういう短歌を読むとつい嬉しくなってしまう。三首目の「旗」は実際に「象徴」として使用されるものだけれど、言葉の上でも象徴として用いると、二重の象徴性というか、特殊な効果が表れるような気がする。

それにしても、この同人誌、完成度が非常に高い。作品が読みやすい文字サイズ、フォントで並べられていて、間のエッセイや歌論も興味深く、充実している。

この号では「短歌の前衛を考える」という特集があって、前川博、田島邦彦、石川幸雄の三氏が前衛短歌についての歌論を発表していた。私は前衛短歌の歴史に疎いので、この歌論は勉強になった。

ここで、一応「前衛短歌」について軽く説明すると、前衛短歌というのは、1950年代に塚本邦雄の第一歌集『水葬物語』を契機として起こった一連の革新的な短歌のことで、他に前衛短歌とされる代表的な歌人に、寺山修司、岡井隆などがいる。どう「革新的」かについては、私が説明するよりも「塚本邦雄」でウィキペディアを見たほうが早い。

実は私は、この前衛短歌のよさがわからないことに悩んでいた。自分はよさがわからないのに、多くの歌人が塚本邦雄や寺山修司の作品を読んで短歌を始めたとか、影響を受けているとか言うのを見るとどうにももどかしい。しかし、この思いは石川幸雄の歌論「日の当たる野を贈るために」の中に引用されていた菱川善夫の歌論『敗北の抒情』(1958年)の一節によって解消されたように思う。孫引きになってしまうが、引用したい。

まことに韻律は墓場である。晶子を始めとする近代短歌史上の、あらゆる天才たちを没落へとひきづりおろしたものが、韻律であり、音楽であった。短歌的抒情が例外なく古典的世界へ回帰するという抒情的秩序、実在する現実と人間との相互関係を、完全に切断する抒情の終末、これが墓場でなくなんであろうか。

もちろん菱川善夫は、この「墓場」というのを否定的な意味で用いていて、

そして今もなおそのような墓場の制作に、営々としていそしんでいるマイナー・ポエットに、心底から哀悼し得るもののみが、はじめて現代の歌人たり得るのである。

と結論している。この文章はめちゃめちゃうまい。私にもここで言う「墓場」を叩き壊して「実在する現実と人間との相互関係」を追求するのが前衛短歌だってことがよくわかった。そして自分が前衛短歌のよさがわからない理由もわかった。

私は、「実在する現実と人間との相互関係」よりも「墓」のほうに関心があって、「墓場の制作に、営々としていそしんでいるマイナー・ポエット」なんてフレーズに痛烈な皮肉を感じるどころか、「最高じゃん、それ」となってしまう。これでは前衛短歌を理解できるはずがない。

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