高柳克弘第一句集『未踏』(ふらんす堂)を読んだ。
この句集は、2003年から2008年までの年ごとにⅠ~Ⅵ章に分けられていて、いわゆる「編年体」の構成となっている。第一句集からここまで明確に編年体で構成するというところに作者の強い意図が存在していることは明らかであるから、この評でも時間軸に沿って句集を読んでいくことにする。
Ⅰ章(2003年)の冒頭に標題歌である、
ことごとく未踏なりけり冬の星
が掲載されている。この句に続いて若々しい清新な趣に溢れた作品が展開される。この句を見ればわかるように、彼の作品は2003年の段階で既に技術的に高度に洗練されている。本来ならば、初期からも多くの作品を紹介したいところであるが、この句集に於て、後半の作品と前半の作品を比べたときに、相対的に――あくまでも相対的に――通常の尺度では完成度が高いはずの前半の作品が雑に見えるという特殊な事情が存在しているため、敢えて後半の作品を中心にこの評では紹介する。
Ⅳ章(2006年)の冒頭付近に、
何もみてをらぬ眼や手毬つく
枯るる中ことりと積木完成す
かよふものなき一対の冬木かな
十人とをらぬ劇団焚火せり
突然このような趣向の作品が固まって存在していて驚かされた。不在の中にある種の調和を見出す特殊な精神性が前面に押し出されていて、特に一句目や二句目の不気味なほどの迫真性――「凄み」と云うべきか――には圧倒される。
これほどの達成を目の当たりにして、当然これからしばらくはこういう方向で詠むのだろうと予想してしまったが、この作風が固まって存在しているのはⅣ章の冒頭付近のみで、彼は直ちに次の作風に移行している。
この次に興味深く感じたのはⅤ章(2007年)にある、
一月やうすき影もつ紙コップ
額縁の直角夏の来たりけり
鳥渡るこんなところに洋服屋
この3句のような異常にシンプルな構造をもった作品である。このような簡潔な趣はⅥ章(2008年)に於て、
みどりさす絵本の硬き表紙かな
巻貝は時間のかたち南風
この2句に見られるような、より精神性が強く表れた作風へと発展している。
また、滑稽な、ウィットの効いた趣向はこの句集に年代を問わず存在しているものである。ただ、私の好みを云えば、前半の滑稽な趣向はあからさま過ぎて――若過ぎて――あまり楽しめなかったのに対して、Ⅵ章の、
六月や蝋人形のスターリン
酢の壜のきれいなままに夏終る
洋梨とタイプライター日が昇る
冬あをぞら花壇を荒らさないでください
この4句に見られるような抑えの効いた機知には存分に引き込まれた。
この句集には、俳句特有の不在の美学――或は無の美学――や、それを体現するものとしての簡潔な文体、また、作品に奥行きを与える滑稽の要素など、俳句のエッセンスが凝縮されている。このことは、高柳克弘の句に明らかに松尾芭蕉の影響が見られることからも判るように、彼の先人に対する真摯な研究の成果を表している。一方で、彼の作風はまだ留まるところを知らない。元来俳句は四季の流転を主題とする詩形であったが、この句集では作風もまた流転する。彼が詠んでいるのはあくまでも現代なのである。芭蕉を初めとする偉大な先人の影がオーラとなって彼の句を支える一方で、彼が志向するのは古典回帰などではなく現代の抒情であって、先人の達成を踏まえた上での新しい試みも存分に見られる。過去から現代までを包摂した、「全時代的俳人」、高柳克弘のこれからの活躍に注目したいと思う。
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