短歌結社誌『未来』の11月号を読んだ。今月も秀歌選をつくってしまおうと思う。『未来』2012年11月号に掲載されているすべての短歌より11首選んだ。掲載順に記す。
1 見やる方松の枝の間に雨傘を畳みつつゆく人遠さかる 米田律子
2 向上心のないものは馬鹿だと鳴いているセミ白球に潰されて死ね 増金毅彦
3 国会を囲む群集 投石はなくとも晩夏の風鈴は鳴る 増金毅彦
4 「正しさ」が客観性をもつことはない。 ただルールというものはある。 増金毅彦
5 こういった時勢に右によりたがる我こそ悲しき大和男子よ 増金毅彦
6 ぽんぽんと夏音のする夕暮れに駆けてゆきます真っ赤な鼻緒 篠宮香南
7 じんわりと沁みてくれればそれでいい。ウェルメイドでハートフルで 鈴木美紀子
8 自転車で港まで来た老人が海を飽かずに眺めてゐた 小野フェラー雅美
9 目が合ふと恥づかしさうに空を見てそこに鴎が飛んで騒いだ 小野フェラー雅美
10 北海の港はいつか軍艦で埋まつてゐたと静かなはなし 小野フェラー雅美
11 遠い遠い昔のことと思ひたいところがそれは未来のことだ 小野フェラー雅美
※4のスペースは「二字空け」。9の「鴎」は原文では「鷗」。「鷗」が環境依存文字であるため止むを得ず「鴎」と表記した。
1は、歌の「姿」が美しい秀作。
2、3、4、5は「未来広場 みらい・プラザ」に掲載されている「五輪後」というタイトルの4首(本誌に掲載されているのもこの4首のみ)。
私は現代短歌に於るいわゆる「社会詠」というものについて相当に否定的な立場を取っている。と云うのも、社会詠の多くにはそれが短歌である必然性――散文に対する優位性――がほとんど感じられないからである。短歌に於て社会的な見解を表明しようとすれば、必ず言葉足らずになり、真摯な社会批評にはならず、どれほど完成度が高くなったとしても、デマゴギーとしての意義しか持たない――と云うのが私の見解である。
増金毅彦の4首も多分に社会的な主張を含むが、通常の社会詠とは状況が異なる。ただ社会に対して意見を表明したり、ちょっと皮肉をぶつけてみたいと云うわけではなくて、社会と自己を照らし合わせた上でのある種の個人的な、内面的な表出が色濃く見られる。そのような特殊な抒情と、2の奇異な構想、4の「二字空け」に象徴される個性的な作風が調和して、読者を引き込む強い力を持った作品が成立している。
6――「鼻緒」の意外性。
7の、「ウェルメイド」も「ハートフル」も随分とダサい形容詞である――「ハートフル(heartful)」は和製英語である可能性もある(英語では普通"heartfelt"と云う)――けれど、「で」で並列されることによって不思議な韻律と抒情が感じられて楽しい。
私はこれまで外国を短歌や俳句に適切に詠み込むことは困難であると考えていた。これは例えば夏目漱石の俳句を読んでいると、イギリス留学中に良い作品が少ないというようなことから来た考えなのだけれど、8、9、10、11の小野フェラー雅美の作品を読んで、どうやら一概にそういうわけではないらしいということに気づいた。漱石のイギリス滞在中に優れた作品が少ないのは彼が「異国」としてイギリスを見ていたからであって、より自らに近いものとしてその国を意識し、その風土にふさわしい韻律を採用すれば日本以外の国についても良い歌をつくることは十分に可能なようだ。
作者と「老人」の邂逅を軸に、脇役の「鴎」や「軍艦」が顔を出す物語性の高い世界観が美しい。
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