2011年4月26日火曜日

富澤赤黄男 秀句選7

一俳句ファンが勝手につくってしまう秀句選、第7回は富澤赤黄男(1902~1962)だ。彼は新興俳句派の俳人の一人とされる。新興俳句とは、水原秋桜子が、1931年に高浜虚子に反発し「ホトトギス」を脱会して起こした「新興俳句運動」に影響されて出現した、一連の新傾向の俳句のことを言う。赤黄男は、抽象表現、隠喩、アナロジーなど西洋的な手法を大胆に用いて、俳句に新しい境地を開いた。四ッ谷龍編『富澤赤黄男』(蝸牛社)所収の300句より24句選んだ。概ね年代順に記す。

1  落日の巨眼の中に凍てし鴉

2  歯を磨く青い空気がゆれてくる

3  陸橋の風のむかうにある冬日

4  この軌道レールの果に繁華な町がある

5  一匹の黒い金魚をうて秋

6  落日をゆく落日をゆく真赤あかい中隊

7  気球なり、あゝ現身うつしみのゆれんとす

8  蒼海が蒼海がまはるではないか

9  春の夜の建てゝ壊した緑の家

10 一本のマッチをすればうみは霧

11 蛇苺 遠く旅ゆくもののあり

12 流木よ せめて南をむいて流れよ

13 あはれこの瓦礫の都 冬の虹

14 蛾の青さ わたしは眠らねばならぬ

15 天の青 わたしがつくるひとつの汚点

16 鳥のゐる枯木 と 鳥のゐぬ枯木

17 葡萄一粒の 弾力と雲

18 草二本だけ生えてゐる 時間

19 無題の月 ここに こわれた木の椅子がある

20 石を積む宿命 鳥は水平に翔び

21 劣等感インフェリオリティコンプレックス――雨だれの音

22 灰の 雨の 中の ヘヤピンを主張せよ

23 破れた木――墓は凝視する

24 ゼロの中 爪立ちをして哭いてゐる

赤黄男の句を読んで、「俳句らしさ」とはなんだろうか、そんなことを考えてみた。赤黄男の句は、普通にイメージされる「俳句」とは大きく異なるように見える。では「俳句らしい」とはどういうことだろうか。

一般に俳句の特徴としては、

1)五七五の定型
2)季語の使用
3)「切れ」の存在

が挙げられる。俳句史上最も有名な俳句、

古池や蛙飛びこむ水の音  芭蕉

を例とすると、まず、五七五の定型はしっかりと守られている。そして、「蛙」は春の季語だ。また、切れ字「や」によって、初句と第二句の間に「切れ」が生じている。この芭蕉の句を俳句と認識できない日本人は少ないだろう。

ここで赤黄男の句をもう一度見る。一見すると、いかにも西洋の現代詩の影響を受けた型破りの無季自由律俳句だ。しかし、先入観にとらわれずに読んでみると、意外と五七五の定型あるいはそれに準じた詩形がとられていることに気づく。そして、7の読点、11、12、13などに見られる一字空け、21、23のダッシュは、「や」、「かな」、「けり」のような切れ字よりも明確に「切れ」を形成している。

では、「季語」はどうだろう。赤黄男の句には季語が存在しないものも多い。

俳句は極めて短い。こんなに短い詩が一つの世界を獲得できるのは、日本人の身体感覚に根差した季語がもつ、先入的なイメージがあるからだ。だがそういう語は「季語」に限るのか。「陸橋」、「中隊」、「家」、「都」、「鳥」、「宿命」、「劣等感」、「墓」、「零」――赤黄男の句にあるこれらの語を見れば、人によって様々なことが心に浮かぶのではないだろうか。時代とともに語のもつ力は移り変わる。四季が、季節というものが人間に与える影響も変わってくる。そうであれば、定められた季語に盲従するのが俳人の、詩人のあるべき姿なのだろうか。赤黄男は、俳句の本質を純粋に追求したのかもしれない。

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