ブログを通じて同人誌「開放区」に参加する石川幸雄氏と知り合い、彼の第一歌集と第二歌集を送って頂いた。まずは第一歌集の『解体心書』(2008、ながらみ書房)の評を書きたい。
彼の短歌には他の現代短歌とは一線を画す魅力がある。例えば、
とある九月土曜十五時吉野家に俺には俺の食い方がある
のような歌にその特徴が表れている。もちろん「百年猶予」でも石川節は健在だ。しかし、この歌集の魅力は、「解体心書」にはなかった深い哀しみを感じさせる歌にあると思う。例えば、
とある九月土曜十五時吉野家に俺には俺の食い方がある
こんな歌がある。この歌のどこが他の現代短歌と一線を画しているのかを示すために、同じ現代短歌で牛丼チェーンを扱った、
うつむいて並。とつぶやいた男は激しい素顔となった 斉藤斎藤
を見てほしい。この斉藤斎藤の歌は「うつむいて」「並」「。」「つぶやいた」「男」「激しい」「素顔」というすべての構成要素が「現代を生きる男の孤独」のイメージへと綿密に計算されている。しかしあまりにも計算高すぎて、斉藤斎藤の敷いたレールにそのまま乗せられてしまったような感覚が後に残る。
ここで、もう一度石川幸雄の短歌を見ると、この歌は月と曜日と時間と「吉野家」という場所を指定して、いきなり「俺には俺の食い方がある」と宣言して終わるという極めてシンプルな構成になっていることがわかる。しかも明らかに上の句はおまけで、この歌は「俺には俺の食い方がある」と言いたいだけの作品だ。「牛丼チェーン」をテーマにして何か社会的な主張をするわけではなく、ただ「俺には俺の食い方がある」と、実に清々しいではないか。私も一緒に「俺には俺の食い方がある!」と叫びたくなる。
彼の歌には変な見栄や体裁がない。
早足の野良着の父がやってくる何処につけしか鈴の音がする
バスに乗り焼き鳥を買いにゆこうかとゆくまいかとあっ花火始まる
この2首は肩の力が抜けたような自然な文体で、読み手としても素直に詩の世界に入ってゆける。
この歌集にはいろいろなテーマの作品が存在していて、一口に魅力を言い表すことはできないが、歌集のタイトルから連想されるような「身体」の扱いかたが非常にうまいと感じた。
溶接に焼けた両眼をジャガ芋で冷やすひねもす仰向けの父
鉄棒からひんやり落ちた姉さんの肩甲骨に大き傷あり
手渡しの給料袋受け取るに熟練工は軍手をとりぬ
父親の焼けた眼が、姉の肩甲骨の傷跡が、熟練工の手の様子が、どの歌においてもまったく説明されていないにも関わらず、はっきりと目に見えるように伝わってくる。このリアリティーは、石川幸雄の鋭い身体感覚からくるものだろう。
ここに紹介したのはこの歌集の魅力のほんの一部にすぎない。最後に数首引用してこの評を終える。
生焼けのタレしたたるに七味ふりいざ沈黙の臓器を食す
週末にひとを迎えるアパートにハロゲンヒータ抱えて帰る
語りきれなかったあれからを持ちよりて涼しくなったら食事をしよう