佐藤弓生の第二歌集『眼鏡屋は夕ぐれのため』(2006、角川書店)を読んだ。この本を開くと、まず最初のページに、表題歌の
眼鏡屋は夕ぐれのため千枚のレンズをみがく(わたしはここだ)
がある。「(わたしはここだ)」でもう佐藤弓生の世界にどっぷりつかってしまったような気分になる。
この歌から彼女の歌がずらずら続くのだが、読んでいるときの私は「すごい・・・こんな表現が」と、感心してみたり、「な・・・なんだと」と、驚愕してみたり、「・・・・・」と思考停止してみたりいろいろ大変だった。
彼女のことばの使いかたは常人のそれをはるかに超越している。例えば、
冬の日のブルックナーの溜息のながながし夜を知れ新世紀
という歌がある。この歌は、柿本人麻呂(660頃~720頃)の
あしひきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む
の本歌取で、かつ作曲家のブルックナー(1824~1896)の名前を入れている。普通こんなことをしたらわけのわからないジョークみたいな歌に終わってしまうだろうが、「知れ新世紀」という恐るべきセンスの結句によって、時空をこえた何か巨きな流れのうねりのようなものを感じさせる短歌になっている。他にもおもしろい歌はたくさんある。
こんなにもきれいにはずれる翅をもつ蝉はただひとたびの建物
この2首は、従来の感覚ではありえないぶっとんだ比喩を用いているが、不思議と「地球」や「蝉」の本質をついている気がする。他には、
死ねカワラヒワのように、と歌ったらなにかやさしく お茶にしましょう
ほのひかる貝のごとくを耳に当てもしもしそちらシルル紀ですか
こんな歌がある。この2首は、「「死ねカワラヒワのように」ってどんな風に死ねばいいんだよ、しかも最後「お茶にしましょう」かよ」とか、「いきなり「シルル紀」に電話するな」とか、つっこみどころ満載で楽しめる。しかし、それだけではない。「カワラヒワ」と「シルル紀」という語の、発音した感触が素晴らしいことに注目してほしい。こういう優れた語感を持った単語を逃さず(普通に考えて「シルル紀」を歌にするのは難しい)歌にするあたり、詩人としての類まれなセンスを感じる。あと、戦争を扱った作品も興味深い。
戦争が好き 好きだからもうテレビつけないでいてほんものじゃない
詰められて終点までを――ほろこーすと――朝の車両に雪はふりつつ
どうしてもいやになれない 戦争よ もっとはらわたはみだしてみて
第二次世界大戦も終結してすでに半世紀以上たち、若い世代の日本人にとって、戦争というものはどこか遠い、抽象的な概念のようになっている。こういった今の日本人の戦争観を、過激な表現をソフトに見せることによって不気味に描き出している。
ここに紹介したのはこの歌集の魅力のほんの一部にすぎない。最後に数首引用してこの評を終える。
いらんかね耳いらんかね 青空の奥のおるがんうるわしい日に
知らないひとについて行ってはいけませんたとえばあの夕陽など
身のうちの道の暗さにひとすじのミルクをそそぐ さあ行きなさい
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