2012年9月28日金曜日

いちばん綺麗な明日香が見える

明日香へ行く。旅に出るときは滞在地の地図を頭に入れないようにしている。明日香では高松塚古墳とかキトラ古墳を見るつもりだったけれど、案の定見当違いの方角へ進む。だがこれで良い。こういう土地の面白さは往々にして観光地よりもリアルな田園に見出せるものだ。この時期の明日香の水田は、一面に実った稲穂が太陽の光を受けて黄金色に光り輝いている。こんもりとふくらんだ小さな丘のすその流れに従うように、田の外郭もまた緩やかなカーブを描き、そしてその外側に広がる田は一段低くなりまた緩やかな曲線を――というように、曲線と階層が機能的に調和した一種の様式美を湛えている。更に目を引くのは、田と田の境界に、びっしりと彼岸花が咲いていることで、一面の黄金に目が覚めるような赤いラインが引かれているありさまは、一個の田んぼファンである私にとっては感涙ものの情景であるが、ここに駄目押しのように、一匹のアキアカネが現れた。赤い。赤蜻蛉というものはこうまで赤いものだったか。繊細な薄い翅にか細い胴体がついている些細な生物であるが、赤い。まごうことなき赤そのものだ。はじめての明日香は、鮮烈な紅であった。

こがね色の稲穂の海に甍舟いらかぶね浮かびあらそふ奈良なつのはて
あをあをと墳丘まろきこの場所からいちばん綺麗な明日香が見える
掌に銀の星宿煌めかせ古墳の谷になびくすすき穂
黄昏の稲穂にともる太陽は青い私の眼を灼くばかり

2012年9月20日木曜日

目をあけてゐるひとと

国立劇場に文楽を見にゆく。文楽を見るのは初めてだけれど、もっと渋いものだと思っていたから、派手な演出に驚いた。「傾城阿波の鳴門」のラストではチャンバラで人形の頭がかち割られてびっくりしたし、「冥途の飛脚」のラストでは雪が降り出して、死出の旅路をゆく男女が寒さに抱き合って小刻みにかたかた震える人形遣いの技にまばたきもできず、拍子木の音の告げる閉幕に、ただ、他の観衆とともに大きな拍手を送るより他になかった。

新宿へむかふ車窓に目をあけてゐるひとと目をとぢてゐるひと

2012年9月16日日曜日

塔 2012年9月号秀歌選

短歌結社誌『塔』の9月号を読んだ。今月も秀歌選をつくってしまおうと思う。『塔』2012年9月号に掲載されているすべての短歌より5首選んだ。掲載順に記す。

1 サンドイッチのバターの塩気ほど良くてわけのわからぬ涙のにじむ  栗木京子

2 塗り残したところが淡い雲になりそれは若き日いた比叡だ  吉川宏志

3 海鹿島あしかじま駅のベンチの背もたれにさしみしょうゆの看板ありぬ  田村龍平

4 乳色の路面電車がとおざかる立夏 とうふを無造作に切る  田村龍平

5 マタキット、キテクダサイは悪くないひびきだエビチリ甘すぎたけど  相原かろ

1にはわけのわからない抒情がある。2は、作者の若い日の絵という、そのままでは、小恥ずかしく、また読者にとってはかなりどうでもいい事柄を、緻密な描写のあとに置くことによって、瑞々しい感動に転換させている秀作。4は「立夏」と「とうふ」の間に立ち込める得も云えぬ緊張感を楽しみたい。

甘すぎたエビチリ…。

2012年8月

8月に詠んだ短歌をまとめておく。既にこのブログに公開した歌が4首、そうでないものが3首で、計7首。御感想を頂けると嬉しい。

飛行機

夏空をエクスクロスに切り裂いて太陽に近づくツバクラメ

黒髪を濡るるにまかせ霞ゆく糺の森にたたずめるひと
(夕立に髪を濡るるにまかせ行く少女を夏よあまねく奪へ  笹谷潤子『海ひめ山ひめ』)

あなたの空を目指して飛んだ僕たちの飛行機を納める格納庫

南京に朝はおとづれクラクションのけたたましくも鳴り初むる哉

南京の街を歩めば片隅に猫空・咖啡店マオコン・カーフェイディエン招牌ジャオパイ

南京の街を歩めば遠景は霞の奥に霞むビル群

南京の街を歩めば路地裏に干されし服の青・緑・青

2012年9月15日土曜日

南京の街を歩めば

南京で一か月間語学留学する。日本では見られない繁栄と成長の熱気につつまれて、最初はただ物珍しさに目をしばたかせていたけれど、慣れてくると、南京の抒情の核心というものは、表通りから少し奥まった所にある雑多な生活環境にあることがわかった。空間から人の息遣いが聞こえるようで、また、壁やひさしや、干してある洗濯物にカラフルな色合いが見出せて楽しい。ただ、そういう雑多な面白さは写真には残せても歌にすることは難しかった。詩情が身体に沁み込まず、軽く流すように詠むよりほかに策がない。異質でおもしろいのだけれど、異質すぎたのかもしれない。午前に学び、午後に歩くことによって、中国語や街の雰囲気についての理解は日増しに深まったけれど、日本の、京都の北白川の、閑静な町並が偲ばれて、帰国の二週間前はやや力なく、最後の一週間になるとにわかに活気づくありさまであった。最終日、晴れ晴れとした心持で、空港までのバスにゆられながら、南京の市街地を取り囲む明代の城壁に沿うように、早朝の鈍色の雲がうすくたなびき、ちょうど壁のすぐ手前に2羽の鳥が小さく絡み合いながら飛ぶさまを見たとき、一か月の滞在では知ることのできなかった南京の顔がまだ無数に存在することが思われて、少しだけさびしくなった。

南京に朝はおとづれクラクションのけたたましくも鳴り初むる哉
南京の街を歩めば片隅に猫空・咖啡店マオコン・カーフェイディエン招牌ジャオパイ
南京の街を歩めば遠景は霞の奥に霞むビル群
南京の街を歩めば路地裏に干されし服の青・緑・青