笹谷潤子の第一歌集『海ひめ山ひめ』(2003、本阿弥書店)を読んだ。この歌集は編年体でI~III章に分けられていて、私の立場からはIII章の作品が特に興味深く感じられた。次の2首を見てほしい。
手のうへの最後のもみぢ愛と呼ぶわりなきものをわれに残して
カフェオレに
「もみぢ」、「蜂蜜」はそれぞれ、「愛」、「死」を導入する役目を果たしているが、繋がりは緩やかで、「もみぢ」、「蜂蜜」それ自体が豊かなイメージと独特の「体温」をもっていることに注目したい――彼女の情景描写は温かい。
やはらかしあたたかしとて抱かれし崩るるまへの夕日の熟柿
窓ぎはにさびしきあをき人立つはくもりガラスに映るあぢさゐ
植物に対する観察を一歩進めて、作者が対象に(物理的な意味ではなく)接近することによって、対象の生命が作者の生命に取り込まれ、両者の境界線は薄くなる。ここにおいて「熟柿」も「あぢさゐ」も客観的な対象としての生物ではなく、作者の生命と共振する生命としてより有機的な動きを見せることになる。
また、彼女の作品には生活を扱ったものが多く、例えば、
函館の坂くだりゆくひと張りの帆よ手をつなぐ家族四人は
はなやかに妬心湧き来よけづり出す色えんぴつのとりどりの峰
この午後を十個のミントの飴にしてほんとにさみしい日にだけなめる
血のやうな夕やけ小やけまたあしたかあさんごつこもそろそろ終はる
こういう歌があるのだけれど、自由な発想と言葉の動きの片隅に、どこかローカルな日常性が感じられる。フィクションを用いても何をしてもあくまでも笹谷潤子という個人の歌であって、過剰に一般化しないところが、もしかしたら、彼女の短歌の一番の特徴なのかもしれない。
ここに紹介したのはこの歌集の魅力のほんの一部にすぎない。最後に数首引用してこの評を終える。
夕立に髪を濡るるにまかせ行く少女を夏よあまねく奪へ
まんばうを恋ひて野分の風のなか天にそびゆる
「かあさんの歌」ぽろぽろと零しつつ赤き車が灯油売りゆく
歌集の中の短歌をコメントする能力もエネルギーもありませんが、今の私の心境に合っているのでしょうか。それとも、安達さまが選んだ歌がそれだけ優れているのか。
返信削除歌の一つ、一つが心に響きます。
ひじょうに、オーソドックスで、古典的で、老練の歌人でしょうか。
あなた様が、今まで、選ばれた歌人たちにはない、落ち着きと詩情を感じます。ただ私に合っているだけなのかもしれませんが。
良き歌たちに会って、有難うございます。/E
こんにちは。
返信削除作者の詩魂と読者の詩魂が触れ合った時にのみ美しい音色が聞こえるのだ
なんて、いつも気障なことを書いていますが、まさにこれ。
つまり、優れた読者を求めてやまないモノがうたであると思います。
笹谷潤子を再認識しました。
安達さんも素晴らしい。
どうもありがとうございました。
>HaraTetsuya1さん
返信削除笹谷さんの短歌の良さをわかって頂けたみたいで、評者として幸せです。
笹谷さんは若い方ですが、この編年体の歌集で後半にかけて歌が格段に進化しているので、ある段階で何か悟りのようなものを得ていることは間違いないと思います。鉄也さんが「老練」と感じられたのはそういう部分ではないでしょうか。
>石川幸雄さん
返信削除「作者の詩魂と読者の詩魂」熱いですね。僕に詩魂があるかどうかはわからないですけど、石川さんが笹谷さんを再認識するきっかけになれたことはすごく嬉しいです。
笹谷さんという方を初めて知りました。
返信削除とても心に響く短歌ばかりでした。
この中では、最初の2首が特に好きです。
景冬さんのコメントの数々も素晴らしいです。
僕は特に最初の2首の二首目が好きです。「凝る」の語感とか、「カフェオレ」、「蜂蜜」っていう語の選択が印象的で。
返信削除笹谷さんはもっと知られてもいいと思うんですけどね。HANAさんに笹谷さんの歌の良さをわかって貰えたみたいで良かったです。