石川美南の「双子の」第二歌集『裏島』、『離れ島』(ともに2011、本阿弥書店)を読んだ。
この「双子の歌集」というのは明確なコンセプトをもっているようで、この2つの歌集は内容が大きく異なる。『裏島』には、家族五人それぞれの視点で歌を詠んだりとか、特殊な設定をもつ連作が多く、逆に『離れ島』は一首一首に強固な世界観をもった作品を中心に構成されている。これだけ方向性が異なると、読者によって好みがわかれることになる。
例えば東郷雄二は、彼の短歌コラム『橄欖追放』の「第84回 石川美南『裏島』『離れ島』」という記事において、
石川は基本的には一首ごとに異世界を立ち上げる。それは外部との回路を断たれた孤島である。異世界を訪れる人は、しばらくその世界を歩き回って基本的特性を会得しなくては、その世界を味わうことができない。しかるに石川の歌では一首で世界が終了してしまうので、なかなかその世界に没入することができないのだ。その結果、読者は灯しては消すマッチポンプのような作業を強いられることになる。
短歌は31音節の短い詩型なので、単独で異世界を立ち上げるには短すぎる。世界が成立するめには外部からの支えがなくてはならない。古典和歌の支えは共同性に基づく美の抽象空間であり、近代短歌の支えはリアリズムに基づく〈私〉である。
では異世界の持続時間を引き延ばし、短歌詩型の支えとして機能させるにはどうすればよいかというと、すぐに思いつくのが連作である。そして実際に石川は連作において、その実力を遺憾なく発揮しているように思える。
と、古典性や近代性の支えをもたない石川の短歌を単独で味わうことの困難性を指摘し、彼女の歌における「支え」は「連作」であると規定した上で、
このような理由で私は単発作品が中心の『離れ島』よりも、連作で構成された『裏島』の方を興味深く読んだ。そして、巻を閉じてあらためて、石川の真骨頂は物語性に富む連作にありとの感想を持ったのである。
と結んでいる。しかし、私は一首一首の個性がソリッドに際立っている『離れ島』の作品の方が好きで、むしろ『裏島』の作中主体を連作ごとに変更したりとか、そういうテクニカルな設定は、一首で十分に作品の世界観を表現できる彼女の力量を考えれば余計なものに感じられた。つまり、東郷氏にとっては『離れ島』だけでは物足りなく、私にとっては『裏島』だけでは物足りないわけだけれど、実際には2冊あるから大丈夫、というわけだ。
東郷氏のようなタイプの読者も私のようなタイプの読者も満足させる石川の懐の深さは、なにも歌集を2冊にわけたところにのみ存在しているわけではない。次の2首を見てほしい。
終点と思へば始点 渡り鳥が組み上げてゆく夏の駅舎は
ビリヤードはたのしい遊び 国原を色とりどりの季語飛び散れり
どちらも色彩豊かな、日常から連続した緩やかなフィクションが心地よい作品だが、題材である「駅舎」と「ビリヤード」へのアプローチは大きく異なる。
二首目はビリヤードのテーブルを「国原」、球を「季語」に喩えている。「国原」も「季語」も極めて日本的な、日常からはかけ離れた語で、これらの語を「ビリヤード」の比喩に用いるのは特殊な修辞なのだけれど、結果的に「ビリヤード」の魅力を極限まで引き出すことに成功している。それに対して一首目は、「渡り鳥」、「夏」、「駅舎」というもともと親和性の強い3つの語を並列し、「組み上げてゆく」というさらに親和性を高める表現で繋ぐことによって、「駅舎」の魅力を最大限に引き出している。このように石川美南は題材の性質によって、正面から切り込んだり、トリッキーに意味を転換させたりと変幻自在なレトリックを駆使していて、この彼女の力量が結果的に驚くほど多彩な内容を歌に詠み込ませることを可能にしている。
手に取つてご覧ください内海の部分には触れないでください
風といふ風受け止めてゐるうちに助詞・助動詞を知り尽くす木々
千代田区は雲ひとつなく明後日のあなたの晩ごはんを知らない
引き出しの取つ手とれたる真昼間のどこにも隠れられぬゆゑ 鬼
「内海」、「助詞・助動詞」、「千代田区」、「鬼」――魅力的だけれどもそうそう詩にはなってくれない言葉が彼女の手によって軽やかに歌となっていく。
ここでは紹介しきれないけれど、このような題材の「幅」と合わせて、現実と虚構との距離感とか、作中主体のリアルな存在や意志が感じられたり感じられなかったりとか、多様な観点でこの歌集は「幅」を持っていて、読者はその幅のある世界の中で、お気に入りの「島」を心置きなく捜すことができるのではないだろうか。
ここに紹介したのはこの歌集の魅力のほんの一部にすぎない。最後に数首引用してこの評を終える。
白・黒・白・黒・みどり・黒 ひらめきは横断歩道渡る途中で
永遠に学生でゐる悪夢にて真夏、中庭の芝刈つてゐる
噛めば月のまばたきに似た音のするアルミニウムの硬貨を愛す