『新古今和歌集』の秀歌選をつくりたい。新古今集は後に承久の乱を起こし隠岐に流される後鳥羽上皇が、源通具、藤原有家、藤原定家、藤原家隆、藤原雅経、寂蓮の6人の当代随一の歌人を撰者に起用し、更に自ら編集を指導することによって完成した第八代勅撰和歌集だ。平安末期の乱世において、新古今集は古今集に「新」がついたその名が示す通り、古き良き時代への回帰を志向して編まれた。その懐古の情と平安末期の高度に発達した表現技法が結びつき、新古今集は特有な幻想美を後世まで称揚されることになる。新古今集には、撰者や後鳥羽院の他にも、西行、式子内親王、慈円、俊恵、鴨長明のような個性的な歌人が割拠し、さらには柿本人麻呂、和泉式部、紀貫之のような過去の傑出した歌人の歌も多く収載され、まさに「古典短歌のオールスター」とでもいうべき様相を呈している。『新古今和歌集』(角川学芸出版)を参考に、全1995首より11首選んだ。掲載順に記す。
1 岩間とぢし氷も今朝はとけそめて苔のした水道求むらむ 西行
2 降りつみし高嶺のみ雪とけにけり清滝川の水の白波 西行
3 春の夜の夢の浮橋とだえして峰に別るる横雲の空 藤原定家
4 大空は梅のにほひに霞みつつ曇りもはてぬ春の夜の月 藤原定家
5 つくづくと春のながめのさびしきはしのぶに伝ふ軒の玉水 行慶
6 うちなびき春は来にけり青柳の影ふむ道に人のやすらふ 藤原高遠
7 暮れてゆく春のみなとは知らねども霞に落つる宇治の柴舟 寂蓮
8 たまぼこの道行き人のことつても絶えてほどふるさみだれの空 藤原定家
9 有明は思ひ
10 雲かかる遠山畑の秋されば思ひやるだにかなしきものを 西行
11 神風や玉串の葉をとりかざし
5の「ながめ」には「長雨」と「眺め」が、8の「ふる」には「旧る」と「降る」が掛けられているので注意してほしい。
さて、個性的な歌人の揃う新古今集ではあるが、その中でも藤原定家の存在はやはり特別と言えるだろう。彼は当時の短歌の水準から考えれば(あるいは今の水準で考えても)、超前衛歌人とでもいうべき人物で、極めて実験的で創造性にあふれた作品を多く残している。彼の特徴として、現実性や写実性を無視して、純粋な言葉のイメージそのものを組み合せて詩を創造することが挙げられるが、その特徴を上に挙げた3と4で見てゆきたい。
まず、3についてだが、歌意は一般的に、春の夜の夢が醒めて横雲が峰に別れている――そして「別るる」に人間関係の別れが暗示される――と解釈されるが、この歌は最初から一貫して視覚的イメージで構成されていることに注目したい。この一貫性のため、実際には上の句は夢の描写で、下の句は現実の描写というように二極的にこの歌を捉えることはできず、さらに下の句の幻想的な情景も相俟って下の句も夢の中のように感じられたり、逆に上の句まで現実であるように感じられたりもする。
4は梅の匂いで空が霞み、かといって曇り切るわけでもなく春の夜の月が出ている、という内容であるが、この歌は崖の上で綱渡りをするような危うさに満ちている。まず、「大空は」という臭い初句からしてかなり危険だ。そしてその直後に梅の匂いで空が霞むという現実的にはありえない描写を持ってきて、さらにその霞は曇り切っているわけではなく、春の夜の月が見えるというわけだ。「大空が霞む」と言われて誰が夜を想定するだろうか、そして「霞んでいるが曇り切ってはいない」とはどういうことだろうか。近代的な理性でこの歌を把握することは難しい。しかし、この歌を普通に読めばまさに梅の香が歌全体が立ち昇ってくるような妖艶な趣を感じ取ることができるし、情景を不自然に思うこともない。
また、3には
風吹けば峰に別るる白雲の絶えてつれなき君が心か 壬生忠岑
4には
照りもせず曇りもはてぬ春の夜のおぼろ月夜にしくものぞなき 大江千里
という本歌が存在している。定家は熱心に過去の短歌を研究し、先人の卓越した構想と自らの自由な創造性を結び付けることによって全く新しいスタイルの短歌を生み出すことに成功したのだ。
ここまで定家のことばかり書いてきたが、西行の2における清新でキレのある趣、10におけるノスタルジックな抒情性、あるいは寂連が7において「宇治の柴舟」を象徴的に用いることによって、歌に幽玄な味わいを持たせていることなどには、これまでの短歌にはなかった新しさを感じる。
新古今集にはこのような新しさが溢れていて、その新しさは古びることなく今でも新しいままこの歌集に存在している。
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