短歌結社誌『未来』の2月号を読んだ。今月も秀歌選をつくってしまおうと思う。『未来』2013年2月号に掲載されているすべての短歌より9首選んだ。掲載順に記す。
1 いずれあなたの戸閾を踏むあしうらを今日は真水に浸しておりぬ 村上きわみ(以下同じ)
2 風下に咲く大叔母の簪をかろうじてこの世からながめる
3 蛇を濡らすひかりのあまやかな記憶の底に凝る、何度も
4 濃紺の守衛の胸に伏せられて書物は冬に似たものになる
5 白湯だけが親しい夜の入り口でいいよあなたの六腑になろう
6 (ゆるすとかゆるさないとか)恥ずかしい釜揚げうどんぞるぞるすする
7 啜ったり舐めたりするひと ひ って言ういのちだ なんとしてもかわいがる
8 泣くまいとしている人にひとつずつ滝を差し入れて暮らしたい
9 (いきものがひくく構えていることのかけがえのなさ)咬みにきなさい
村上きわみの「戸閾を踏む」(「2012年度未来年間賞」として、一年の投稿歌の中から秋山律子が選んだ作品集)の読み応えが尋常ではない。
まずめまぐるし動く作中主体の視点がこの連作の醍醐味のひとつであろう。2では現世と来世の境界に存在している作中主体が、6では「釜揚げうどん」を「ぞるぞるすす」っていたりする。更には5では、「あなた」の身体に同化する意思――或は未来――が表明され、8、9ではやや超越的な視点が導入される。このように作中主体は通常の自我の枠組みを完全にはみだしてしまっているが、「はみだしている」のはそれだけではない。
驚くべき短歌表現の柔軟性を見てほしい。句跨りや、一字空け、句読点、パーレンなどの表記的な技術に支えられた、言葉の緩急によって形成される情感の脈動が、描写を越えて読者の心に叩きつけられる。特に印象深いのは、6の「ぞるぞる」や7の「ひ」のような音の扱いである。「ぞるぞる」のような擬音語は、短歌に限らずあらゆる言語世界で無自覚かつ大量に再生産され、その過程で語が本来有していたであろうテンションの一部を失っているように思える。「うどん」を「すする」シーンに対してメジャーな擬音語であると思われる「ずるずる」を使用したのでは十分な効果が得られなかったことであろう。また、7の「ひ」というひらがな一字で表された声を「いのち」と等価なものとして提示する手法も興味深い。このような音――それ自体は短歌の構想的にはほとんど無内容ともいえる表現――が、前後の言葉との有機的な関連に於て、選択され得るあらゆる理知的な描写を凌駕する可能性があることが彼女の作品に示されていることは、現代短歌の表現を考える上で示唆深いものがあるように思う。