2012年12月19日水曜日

率 2号

短歌同人誌『率』の2号を読んだ。『率』は、力のある若い歌人が集う同人誌で、ぺらぺらの薄い冊子であるが、読み応えは十分であった。特に、小原奈実の連作「にへ」と、平岡直子の連作「装飾品」が印象に残った。

まず、小原奈実の「にへ」では、

黙すことながきゆふさり息とめて李の淡き谷に歯を立つ

肉体のわれを欲るきみ切りわけし桃に褐変の時が過ぎゆく

この2首が印象に残った。2首とも二句切れのいわゆる万葉調(五七調)で、第二句までが心情的な描写、第三句からが実景的な描写という構成になっている。心情的な部分と実景的な部分を分ける手法は現代短歌に於て「王道」とでも呼ぶべき、ある種定番ともなっているもので、作者の世代や志向を越えて広く用いられている。それにも関わらず、私はこの2首にある種の「驚き」と「新しさ」を感じずにはいられない。

心情的な描写からするすると作品世界に入ってゆくわけだが、それぞれ第三句あたりまで差しかかったところで驚くべき表現に出くわすことになる――「息とめて李の淡き谷に歯を立つ」、「切りわけし桃に褐変の時が過ぎゆく」――突如立体的に浮上する「李」と「桃」の存在感にはっと息を呑む思いがする。

これらの表現に傑出している部分をより詳細に考察してみたい。まず一首目では、「淡き谷」という「李」の一側面を端的に切り取り、そこに局所的に「歯を立」てる。二首目では、桃が「褐変」してゆく様を「時が過ぎゆく」という大きな時間の幅で捉えてゆく。「李」と「桃」という存在の「淡き谷」、「褐変」という視覚的、外観的にユニークな特徴が示され、そこに外観以外の動きが加えられることで、対象が言葉の上に立体的に立ち上がって来るというわけだ。このような描写は、作者の「李」や「桃」のような小さな「もの」――あるいは「生命」――に対する確かな関心と、それに基づく観察の成果を表しているように思う。そして小原奈実の「新しさ」というのは――この立体的な情景描写自体が既に革新的であることに加えて――このような表現が、いわゆる「客観写生」のような無味乾燥な文脈に置かれるのではなく、情感豊かな文脈の中に、つややかなナイフのように仕込まれて、作品の世界に奥行きと緊張を添えている点にある。このような方法がこれまでの短歌に存在したであろうか。

平岡直子の「装飾品」には、

ピアニストの腕クロスする 天国のことを見てきたように話して

完璧な猫に会うのが怖いのも牛乳を買いに行けば治るよ

これだから秋は、ときみは口ずさみ怪獣みたいな夕焼けだった

こんな歌があった。「ピアニストの腕クロスする」、「完璧な猫」、「怪獣みたいな夕焼け」――恐るべき強度を持ったフレーズが突き刺さるように響く。そしてそこに「牛乳を買いに行けば治るよ」とか、「これだから秋は」というように、語りかけるような優しさで、不可解な内容が示唆される。ほとんどわからないぎりぎりのところで、わかる、といった印象であろうか。言葉の強度は感性の壁を越えるのかもしれない。

2012年12月6日木曜日

未来 2012年12月号秀歌選

短歌結社誌『未来』の12月号を読んだ。今月も秀歌選をつくってしまおうと思う。『未来』2012年12月号に掲載されているすべての短歌より5首選んだ。掲載順に記す。

1 にぎってる手がぎこちない 駅ビルの向こうにも冷えきった青空  浅羽佐和子

2 心的外傷トラウマにいやされる夜もあるのだしパルプ町からにおう煤煙  柳澤美晴

3 歯みがき粉口内炎にしみながら明日めざめるものとおもわず  柳澤美晴

4 戦争ごっこがはやってるって屋上までのぼってまわりの音楽を聴け  細見晴一

5 鞄にはいつも薄手のカーディガンしのばせておくあたらしい秋  中込有美

1の下の句の句跨りがぎこちなさを際立たせているように感じるのは恣意的な読みであろうか。

――旭川に「パルプ町」という町があるらしい。地名は普遍性を持たないようにも思えるが、「煤煙」と組み合された下の句からは、何の前提知識が無い状態からも確かなイメージを想起できた。「心的外傷トラウマにいやされる夜もあるのだし」――随分当り前のように云っているけれど、これはどうなのだろう。トラウマから逃避することを選び続ける人間にはわからない境地なのかも知れない。

3の「明日めざめるものとおもわず」――2の上の句もそうだけれど、ある種「異常な」内容が本当に当り前のようにさらっと述べられていて、歌全体の描写の中で読者もその内容を当り前のように受け止める――そういうある種の説得力が柳澤美晴の短歌には存在しているような気がした。

――音楽を聴け。

――些細な生活的事象が結句「あたらしい秋」によってのびやかに開放される。あたらしい秋。あたらしい秋が訪れたのだ。

2012年12月5日水曜日

塔 2012年12月号秀歌選

短歌結社誌『塔』の12月号を読んだ。今月も秀歌選をつくってしまおうと思う。『塔』2012年12月号に掲載されているすべての短歌より7首選んだ。掲載順に記す。

1 秋の夜の書架の端より抜き出せば付箋のピンク色褪せており  吉川宏志

2 星にいて星視ることのあやうさのくるぶしを冷しゆく夜にいる  大森静佳

3 産むことも産まれることもぼやぼやと飴玉が尖ってゆくまでの刻  大森静佳

4 白い器に声を満たして飛ぶものをいつでも遠くから鳥と呼ぶ  大森静佳

5 昼の月はいつも一人で眺めおりあの裏にも青い空があるから  大森静佳

6 年月はまぶしき獣 その尾までこの掌で撫でてあげるから来て  大森静佳

7 抽斗のスプーンのように重なって眠りぬ秋の豊かな昼を  大森静佳

――緻密な描写から突如浮上する「ピンク」の衝撃――しかしその色は既に褪せている。

2の「星にいて星視ることのあやうさの」、5の「あの裏にも青い空があるから」――通常の認識を意図的にずらした表現である。このような試みは「試み」として終ってしまうことが多いが、これらの作品ではぎりぎりのところで陳腐さを回避している。この事は短歌の韻律性と深く関わっているように思う。2の「くるぶしを冷しゆく」の「を」の挿入、5のア行を基調とした「あの裏にも青い」――イレギュラーな、それでいて定型性との絶妙なバランスを感じさせる字余りの第四句が、両歌の内容に微妙なところで説得力を与えているのではないだろうか。

いずれにせよ、最近の大森静佳の作品の充実した内容にはただ驚くばかりで、くどくどと評することが野暮のように思えて来る、ということもまた事実である。

2012年12月1日土曜日

窓、その他

内山晶太第一歌集『窓、その他』(2012、六花書林)を読んだ。この歌集にはさまざまな内容の歌が含まれている一方で、ある一貫した傾向があるように思われる。その傾向は彼の「あとがき」の以下の部分に代言されているように感じた。

格好の良いあとがきは書けないし、書くつもりもないのだが、今年はわたしにとって作歌をはじめて二十年目の節目にあたる。訳のわからない実生活を過ごしつつ、よくも途切れることなく二十年間こつこつと歌を生んできたものだとわれながら思う。が、逆に言えば、訳のわからない実生活があったからこそ、長い期間短歌を続けて来られたのかもしれない。

そうしてようやくここに花をひとつ咲かせることができた。咲いてくれてよかった。

このあとがきから以下の二つの内容を読み取ることができる。

1 「訳のわからない実生活」が内山晶太の創作の原点であること。
2 「格好の良い」ことは書かないと宣言しつつ、「そうしてようやくここに花をひとつ咲かせることができた。咲いてくれてよかった」というようなことを云うのが内山晶太であること。

基本的に内山晶太の歌のベースには彼の実生活があって、歌の内容には「格好の良い」ことだけではない、ありのままの生活のさまざまな様相が描かれているのであるが、その一方で、彼の美意識がすべての歌に色濃く表れている。その最も顕著な例として、

自涜にも準備があるということの水のくらや
み蓮ひらきおり

この歌があるように思う。この歌だけを読むと、この下の句の「水のくらやみ蓮咲きおり」という描写はミスマッチなのではないかと反発したくもなるのだけれど、それは表層的な見解で、すべての歌に繰り返し提示される内山晶太の美意識、その一つの表れとしてこの歌は捉えられるのではないだろうか。

「繰り返し提示される美意識」といっても、それがいわゆる「生活感情」のようなかたちで表れる歌と、より普遍的なかたちをとって表れる歌というような表現形式の違いはあって、私としてはある程度生活の臭いが消えている作品が印象に残った。それは例えば、

お魚のように降るはな 一生の春夏秋はるなつあきを遊び
つかれて

花摘みて花に溺るるたのしさをきょう生前の
日記にしるす

わたくしに千の快楽を 木々に眼を マッチ
売りにはもっとマッチを

こういう歌なのだけれど、歌の内容は快楽を追い求めるようなものになっていて、それでいて実際に表れている表現については自制の効いた、ストイックなものになっていることが興味深い。また、

観覧車、風に解体されてゆく好きとか嫌いと
か春の草

閉ざしたる窓、閉ざしたるまぶたよりなみだ
零れつ手品のごとく

これらの作品には、イメージと心情が重なり合った豊穣な世界観が表れている。これは読者の好みによるところも大きいのだろうけれど、私はこの歌集の中では、このようにある程度一般性や普遍性を孕んだかたちで提示される歌が成功しているように思えた。ただ、

降る雨の夜の路面にうつりたる信号の赤を踏
みたくて踏む

帰路いじる携帯電話の液晶にかもめ乱れて飛
ぶ冬の空

このように極めて日常的な文脈で発揮されるユニークな視点も、内山晶太の短歌の重要な側面であることは言及しなければならないであろう。

この歌集の読解の上でどの程度の重要性を持つかはわからないが、内山晶太の短歌には石川啄木の短歌との著しい類似性が感じられることにも触れておきたい。内山晶太と石川啄木の類似というのは、「生活を扱っている」というのはもちろんそうなのだけれど、それだけではなくて、言葉の遣い方、文体のレヴェルに於ても広く見られるように思える。この歌集にある、

すばらしく晴れたる冬の岸しずか蟹さえわた
しを離れたりけり

という歌は、石川啄木の『一握の砂』にある、

東海とうかい小島こじまいそ白砂しらすな
われきぬれて
かにとたはむる

へのオマージュ、あるいは「挑戦」とも受け取れるのではないであろうか。

この歌集の「一行20字の二行書き」とい表記にも啄木との類似性を感じるが、この表記については内山氏がTwitter上のやりとりで

一首二行取りはわたしが決めたのですが、一行の文字数は出版社さんに委ねました。ですので、特に思惑があったわけではありません。ただ、こうした「偶然性」というのは大切にしたいなあと日頃から思っています。

と答えて下さったことがある。個性的な表記を指定しつつも、作者の意図を伝達する上で重要と思われる文字数の指定は「他者」に任せる、という姿勢には、啄木の緻密に計算された「三行書き」とは異なる、内山晶太の個性――ある種の「二面性」が表れているのだと思う。この「二面性」は、前述したように、表記だけに留まるものではなく、この歌集のあらゆるところに見られるものである。

ここに紹介したのはこの歌集の魅力のほんの一部にすぎない。最後に数首引用してこの評を終える。

楽曲のなかに落ちゆく稲妻を待てりなまぬる
き観客席に

いっぽんのマッチを擦って見るゆめは見ては
いけないゆめ そうですか

いくつかの菫は昼を震えおりああこんなにも
低く吹く風

いくつもの春夏秋冬あふれかえるからだを置
けり夜祭のなか