石川幸雄の第二歌集『百年猶予』(2010、ミューズ・コーポレーション)の評を書く。
まず、前作『解体心書』(ながらみ書房)についてだが、歌集のタイトルに表れているように、粋な「石川節」とも言える独特な歌風が冴えわたっている印象を受けた。例えば、
とある九月土曜十五時吉野家に俺には俺の食い方がある
のような歌にその特徴が表れている。もちろん「百年猶予」でも石川節は健在だ。しかし、この歌集の魅力は、「解体心書」にはなかった深い哀しみを感じさせる歌にあると思う。例えば、
父親を兄を息子を弟を夫を孤独を演じるわれは
という歌がある。この歌にあるような「人生という名の演劇」、そしてその役者としての石川幸雄という構図が、この歌集のモチーフとして存在しているような気がする。
改札で別れた姿を見ぬように前向き歩く中央線ホーム
クスリ切れて血走る脳を珈琲にゆだねて街の覚醒待てり
モルフォ蝶の青い切手はいつか書く手紙の為に取り置きしもの
この三首は連続した作品ではなく、それぞれ別のページに配置されている。しかし、掲載順はこの通りだ。一首一首が小説的な要素を強く含んでいる。そしてこの掲載順もまた物語性をもってくる。これがそのまんま石川幸雄の人生の一シーンなのか、あるいはそうでないのかは私にはわからない。しかしいずれにせよ、哀しい歌だと思う。見えないはずの歌の背景が脳裡に展開されていくような感覚がある。この歌集ではこういう「物語」の間に、
潮風は吹いてこないがゆきましょう海なら四囲のどこにでもある
のような不思議な提案や、
あこがれは記憶の嘘となりましてわが風景に雨のふるふる
のような彼にしか見えない特殊な情景が挟まれる。そして、すべての歌は、表題歌の、
生きるとは罪なり余程永くとも百年猶予 のちには死刑
に収束していく。これは彼が到達した、人生に対する一つの答えなのだろう。
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