佐藤弓生の第三歌集『薄い街』(2010、沖積舎)の評を書く。
以前、彼女の第二歌集『眼鏡屋は夕ぐれのため』(角川書店)を読んだときには凄まじい衝撃を受けた。この歌集にあった歌をいくつか紹介したい。
死ねカワラヒワのように、と歌ったらなにかやさしく お茶にしましょう
ほのひかる貝のごとくを耳に当てもしもしそちらシルル紀ですか
いらんかね耳いらんかね 青空の奥のおるがんうるわしい日に
知らないひとについて行ってはいけませんたとえばあの夕陽など
これらの歌を見れば私の受けた衝撃を理解して頂けると思う。場所とか時間とかそういう概念がどうでもよくなってくるくらいどこにも留まらない視点、短歌という枠組みに縛られているはずなのに束縛を一切感じさせない表現技法、そういう点で、この歌集は現代短歌のもつ可能性をはっきりと示していた。
そして今回の「薄い街」、この歌集を単純にインパクトという点で見れば、前作には及ばないと思う。しかし、別の方向で佐藤弓生は進化を続けているように感じた。まず、表題歌を見てほしい。
手ぶくろをはずすとはがき冷えていてどこかにあるはずの薄い街
この「薄い街」は稲垣足穂の短編から採られているようで、
この街は地球上に到る所にあります。ただ目下のところたいへん薄いだけです。
稲垣足穂「薄い街」
という詞書が付せられている。私はこの歌にこの歌集の特徴が凝縮されているように感じた。どこか身近で親しみをもてる上の句から、下の句にかけて違和感なく流れるように抽象的な「薄い街」へとつないでいく――実際に同じような構造をもった歌がこの歌集には多い。
階段にうすくち醤油香る朝わたしがいなくなる未来から
風の中めがねずらせばミルフィーユみたいにふるいあたらしい町
ざっくりと西瓜を切れば立ちのぼる夜のしじまのはての廃星
みずいろの風船ごしに触れている風船売りの青年の肺
ささいな日常からの大きな詩的跳躍、そして「未来」「町」「廃星」「肺」のような印象的な語で静かに、余情をもってまとめあげる、このあたりの技量には目を見張るものがある。
また、個性的なものの見かたに驚かされる歌も多い。例えば、
夏の朝なんにもあげるものがない、あなた、あたしの名前をあげる
喘ぎ、つつ、わが漕ぎ、ゆけば、自転車になりたい夏にさいなまれたい
まよなかにおなかがすいていつまでもにんげんでいるなんて、錯覚
うつくしいうみうし増えて増えて増えて増えて人を憎んでいる暇なんか
これらの歌は完全に佐藤弓生独自の世界で、あとはもう読者がついてゆけるか、ゆけないかの問題になってくるのだろう。
ここに紹介したのはこの歌集の魅力のほんの一部にすぎない。最後に数首引用してこの評を終える。
花器となる春昼後刻 喉に挿すひとの器官を花と思えば
赤い石鹸になりたいあたたかいあなたの手から溶けてゆきたい
夢を碾く わたしのゆめがどなたかのゆめの地層をなしますように
うつくしい牛の眼をして運命がまだやわらかいぼくを見ていた
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