2011年5月8日日曜日

短歌研究 2011年5月号

短歌総合誌『短歌研究』(短歌研究社)の5月号を読んだ。

東日本大震災が起きたことによって、私はあることを危惧していた。それは、震災を扱った短歌が無神経な歌人によって量産されるということだ。そしてその恐れは現実となった。この号には多くの震災を扱った短歌が寄稿されていた。もちろん私は震災に関連して詩を創作することを否定しているわけではない。しかし、「歌人」という人種は恐ろしいことに、テレビで見た映像だけで短歌を詠む。本来テレビのような表層的なメディアで得た情報のみで詩を詠むなどということはありえないと思うのだが、歌人は平気でそういうことをする。そういう安易な作品において、「東日本大震災」は、「千年に一度の災害」ではなく、「短歌のお題の一つ」に成り下がってしまう。常に「短歌」を「生産」するために眼を光らせ、「お題」になりそうなものがあればハイエナのように食らいつく――こういった態度には激しい嫌悪感を覚える。

しかし救いはあった。東直子も「押し寄せたもの」という震災を扱った連作を寄稿していたのだが、この作品群は非常に興味深かった。胸を揺さぶるような感情的な作品が多かったが、私にはそんな作品の間にあった、

忘れられない三月の桃の花終わった桃も桃であること

という一首が印象に残った。こういう「なにも主張していない」のに多くのことを訴えてくる短歌が好きだ。

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