短歌総合誌『短歌研究』(短歌研究社)の6月号を読んだ。今号には前号以上に震災短歌が満ちあふれていた。その中でも放射性物質を扱った歌が特に酷いので、前号にあった歌も含めて、特に気になった五首を批判したい。
ある日突然滅亡するか人類は放射能空を海を漂ふ 時田則雄
一CC当り三百九十万ベクレルの春の水面にひたしいし足 奥田亡羊
核燃料は冷やされて燃え続けをり「明けない夜は無い」といふ嘘 高野公彦
原発は人を養ひ、しかすがに燃ゆる
セシウムの炎白銀の光なしこの空青くさくら咲きゆく 馬場あき子
まず時田則雄の作品は論外だ。放射能とは、「放射性元素の原子核が自然に崩壊して放射線を出す性質。また、その現象」のことで、当然のことだが、「性質」が空や海を漂ったりはしない。これは単純な放射性物質と放射能との混同で、読んでいるほうが恥ずかしくなるようなレベルの勘違いだ。
二首目の奥田亡羊の歌は、「三百九十万」という数値のインパクトを狙った、ただそれだけの短歌だが、こういう類のインパクトを前面に押し出すことには危険性が伴う。というのも、数値は単位の定義との関係で初めて意味をもってくるもので、三百九十万ベクレルは、三十九億ミリベクレルでもあるし、三千九百キロベクレルでもある。1ベクレルは「1秒間に1つの原子核が崩壊して放射線を放つ放射能の量」を表すが、このように直観的な理解が困難な単位の「三百九十万」という数値を振り回して、「一CC当り」などと「科学らしさ」を演出するあたりには、「短歌」という短い詩形がもつ危険性、「科学」や「数値」がもつ危険性が端的に表れていると思う。
三、四、五首目の作品には、共通して放射性物質が燃えて炎となっているようなモチーフがある。ここでわざわざ説明することではないが、原子力発電所では、水で満たされた原子炉内に燃料棒があり、そこに含まれるウラン235やプルトニウム239のような放射性同位体を核分裂させることによって発生した熱が水を沸騰させ、水蒸気がタービンを回すことによって発電している。ここで、核分裂は燃焼(炎の発生を伴う酸化)とはまったく異なる反応であることをわざわざ確認しなくても、燃料棒が「水中に存在する」というイメージさえあれば、「燃える」「炎」のモチーフがいかに現実と遊離しているかが理解できるだろう。
最後に確認するが、短歌の内容は事実を正確に描写する必要はないし、もちろん自然科学の法則なんて無視しても構わない。ただ、ここに挙げた短歌における「虚構」に、私は詩的なイメージの飛躍を感じとることができない。極めて初歩的な事実の誤認に基づく「勘違い」にしか見えないのだ。もしかしたら、作者にはなにか意図があるのかもしれない。しかし、作品を素直に読む限りでは、ここに展開したような批判は自然に出てくるものだと思う。また、そういう批判に対する作者の反応で新たなことが見えてくることもあるだろう。ところが、歌壇にはこのような批判をする人間はいない。ここに挙げた四人の歌人は、いずれも華々しい経歴(受賞歴)をもつ歌壇の指導的な立場にある人物だが、このような「権威」の作品を作品の内容を無視してまで享受したいという考えは理解できないし、そのような空気が罷り通る分野は衰退を免れないと思う。