大森静佳の第一歌集『てのひらを燃やす』(2013、角川書店)を読んだ。この歌集は編年体でI~III章に分けられていて、I章は第56回角川短歌賞を授賞した連作「硝子の駒」から始まっている。そこにある印象的な歌を引いてみよう。
冬の駅ひとりになれば耳の奥に硝子の駒を置く場所がある
とどまっていたかっただけ風の日の君の視界に身じろぎもせず
美しく、はかなくも気品があり、それでいて脳裏に残る強さがある。
歌集前半は、このようにどこかはかない雰囲気を醸しつつも、文体は均整がとれていて、意味内容もわりとすんなり納得できるような作品が多いのであるが、II章の途中から、次のような毛色の異なる作品が現れ始めることになる。
つばさすらないのに人は あまつさえ君は夕暮れに声低くする
憎むにせよ秋では駄目だ 遠景の見てごらん木々があんなに燃えて
え?というのが第一印象だ。つばさすらないのに人は、憎むにせよ秋では駄目だ――突然呼びかけるように放たれた強い言葉に戸惑いを覚える。この歌集の最初から大森の言葉は強かった。しかしこの突き刺さるような強さはなんだ。異常に強いと云うべきか。
そして一字空けを挟んだ後半部分「あまつさえ……」、「遠景の……」の前半部分との論理的整合性に、I章に見られるような明解さがないことにも注目したい。この辺りから大森は、読者にとっての分かり易さをある程度無視してでも、表現すべきものがあることに気づいたのではないだろうか。この傾向はIII章でさらに強くなり、例えば
雲のことあなたのことも空のこと 振り切ることのいつでも寒い
という歌がある。ちょっと想像しただけでいろいろな解釈が立てられそうな不確定性に満ちた歌だけれど、最後の「寒い」。これだけは随分はっきりとイメージできる。寒い。私にも確かに寒く感じられるのだ。具体的に説明しろと云われたら困るのだけれど、寒い。寒いのだ。
大森はある時期に、情景を読者に客観的に説明するための言葉を用いることを辞め、より直観的な感情との対応で生まれた言葉を用いるようになり、それは云い換えれば自我そのものとしての言葉、更には自我に先行する何かとしての言葉なのだと思う。全体の描写の中で単語やフレーズが際立って強く感じられる歌があるのはそのためではないだろうか。
どうにかして抱きしめたいような言葉 さようなら、と笹舟を流すように言う
声は舟 しかしいつかは沈めねばならぬから言葉ひたひた乗せる
言葉によって説明された作者の内面の迫力、ではなく、作者の内面との対応で生まれた言葉、言葉そのものの迫力――そしてその言葉が流し込まれる韻律にも注目すべきものがある。
売ることも買うこともできる快楽、と思いつつはぷはぷ牛乳を注ぐ
まばたきのたびにあなたを遠ざかり息浅き夏を髪しばりたり
大森は基本的に定型に忠実な歌人であるが、その韻律は感情の脈動に沿うように流れ、その昂ぶりに呼応するように時として字余り気味にふくらむ。
この歌集の中で、常人離れした大森の感性は一貫したものであるが、後半に進むにつれて言葉や韻律の使い方がより短歌という言語芸術の核心に近づいてゆくように感じた。私は大森の作品の思想内容に必ずしも共感的な読者ではないが、そういった共感/非共感の壁を越えて伝えるだけの力を、彼女は既に得ているように思う。
ここに紹介したのはこの歌集の魅力のほんの一部にすぎない。最後に数首引用してこの評を終える。
後戻りするものだけがうつくしい枇杷の種ほど光る初夏
奪ってもせいぜい言葉 心臓のようなあかるいオカリナを抱く
こころなどではふれられぬよう赤蜻蛉は翅を手紙のごとく畳めり
生前という涼しき時間の奥にいてあなたの髪を乾かすあそび
参考文献
岩尾淳子「大森静佳 「てのひらを燃やす」」(2013、『眠らない島』)