土岐友浩氏に彼の参加する同人誌『一角』を頂いた。この同人誌、どの作者の作品も個性的で興味深いのだが、私の立場からすると、特に土岐友浩の連作「blue blood」が重要であるように思う。この連作の特徴として、まず次の作品を見て欲しい。
自転車はさびしい場所に停められるたとえばテトラポッドの陰に
まず一見して、主題が地味である。「自転車はさびしい場所に停められる」。なるほど、共感できないことはないが、だからなんだというのだ。どうでもいい、極めてどうでもいい――はずなのに妙に心惹かれるのは、その「場所」が「たとえばテトラポッドの陰」と具体的に示されていることによる。ここまで読めば、作者はテトラポッドの陰に停めてある自転車を見て、そこが「さびしい場所」だと気づいたのだなと、この歌は気づきの歌、発見の歌なのだなと合点がゆく。そして、その気づきの提示が、「自転車はさびしい場所に停められる」と、まるで普遍的命題を示すかのように行われているところに「ずれ」があることにも気づくわけだ。つまり「テトラポッドの陰」というなんだか面白いはずの(しかしそれだけでは十分に面白くない)場所への「気づき」があって、それが「ずらして」提示されることによって本来の面白さが引き出されているわけであるが、この「気づき」と「ずらし」はこの連作に於る重要なポイントだと思う。
靴ひものようななにかが干してある商店街を吹き抜ける風
「靴ひものようななにか干してある」という気づき、これもまたささやかな気づきではあるが、冒頭に「靴ひものようななにか」が提示されると、それがどのようなものなのか妙に気になる。気になるのだが、「商店街を吹き抜ける風」が、そんなものはまるでなかったかのように爽やかに吹き流してしまう。風が読者の焦点をずらしてしまうのだ。靴ひものようななにかとは一体なんだったのだろうか。
苔に苔が
この歌も面白い。狛犬に苔が重なるように生えているという着眼点自体はこれまたかなり渋いのであるが、その点を「いるのか」と軽い疑問形で提示し、「ますますでこぼこになっている」と、くだけた言葉で表現している。渋い事象に渋い言葉をぶつけるのではなく、主題とは「ずれた」軽い言葉でさらっと流してゆく(それでいて「
なんとかという大統領を勝手に応援するなんとかという町に来ました
本棚の上に鏡を立てかけてあり合わせからはじまる暮らし
新しい町、新しい生活ではあるが、文体にも内容にも気負いはない。
ゆっくりと時間をかけてぶつかって大きく立ち上がる波しぶき
発砲スチロールの箱をしずかにかたむけて魚屋が水を捨てるゆうぐれ
水の描写はまるで眼前に迫るようであるが、彼の気負わない文体もまた、外の事象に対して水のように柔らかなのかも知れない。