滋賀県立近代美術館へ、志村ふくみの紬織を中心とした日本美術の企画展「装いとしつらえの四季――志村ふくみの染織と日本画・工芸名品選――」を見に行って来た。
もともとこの企画展が目当てで、常設展はおまけ程度の気持ちで企画展を見る前にさっと見てしまおうと思ったのだが、常設展の一室は小倉遊亀のコレクションとなっていて驚いた。彼女は大津出身らしい。知らなかった。特に後期の作品が充実している展示であった。小倉遊亀については、画集等で見た『首夏』のような初期の作品に見られる独特な透明感のある描写が印象的であったが、生で見るとそれよりも、後期にかけてどんどん無骨になってゆくフォルムからほとばしる生命感の躍動により強い魅力を感じた。
常設展で小倉遊亀の不意打ちにあって、すでに十分に堪能してしまったのだが、企画展もまた、素晴らしい内容だった。春夏秋冬の季節ごとに作品が振り分けられて、春から順に楽しむことができるような展示形式になっている。展示内容は、志村ふくみの紬織と清水卯一の陶芸を中心として、その間に日本画や、杉田静山の竹細工まで展示され、日本美術を複合的に堪能できるような構成となっている。
なによりも圧巻だったのは、やはり志村ふくみによる染織作品であった。彼女の作品は桜・梅・藍のような植物から得られた染料によって染め上げられているらしいのだが、その繊細かつ艶やかな発色はまさに人の為せるものではなく、あまりの美しさに良く目を凝らしてその色彩を理解しようとするのであるが、その色の機微に視覚の解析能力が追いつかない。今日帰りに買った彼女の著書『色を奏でる』(筑摩書房)には、
ある人が、こういう色を染めたいと思って、この草木とこの草木をかけ合せてみたが、その色にならなかった、本にかいてあるとおりにしたのに、という。
私は順序が逆だと思う。草木がすでに抱いている色を私たちはいただくのであるから。どんな色が出るか、それは草木まかせである。ただ、私たちは草木のもっている色をできるだけ損なわずにこちら側に宿すのである。
ということが書いてあった。彼女のこの世のものとは思えないほど美しい染織は、高度な技術に基づくだけではなく、自然の色をただ「こちら側」に移すという謙虚な姿勢によるものだった。自然の美は人の為せるものではない。私たちにできるのはただその流れを受け止めて、ある表現形式へと流し込むことだけである。技量には雲泥の差があるが、同じく自然の表現を志す者として、彼女の言葉には大いに共感するものがあった。
夏痩せた身体は風にはこばれて鳥居をくぐれば新しい街
はるかなる道はるかなる夏雲にちひさく息を吹きかけてみる
バスケットゴールの網は朽ち果ててひとところ光のあたる場所